現代社会とうつ病

何故こんなにうつ病になってしまう人が多いのか?考えてことはありませんか。

うつ病は本当は病気ではないのです。通常私どもはは「贅沢病」と言っています。

裕福な方が掛るのです。ギリギリの生活をしている人ははかからないのです。

それは、悩んでいられない生活環境にあるからだと思います。今を働かなくては生活ができないからです。

生活優先で悩んでなんかいられませんからね。

「うつ病」これは現代社会のひずみで起きる問題です。

親しい友人がいない。話し相手がいない。相談する人もいない。これは、現代社会が利己主義社会だか

らです。他人はどうでもいい、自分が優先、人の事なんかかなっていられない、などの風潮が蔓延ってい

るせいです。

皆さん、親しい信頼できる友人を一人は作りましょう。そして友達をたくさん作るようにしてください。

理想の人生

人々にとって理想の人生とは何でしょうか。

「道元」の言葉に 「舟のほかに我はなし」と言う言葉があります。

現代風に解釈しますと

自分の人生を考えるときに、「生きている」という面からだけ考えてはいけない。「生かされている」という面

も忘れてはならない。それがないと傲慢不遜な人間で終わってしまう。

「生きている自分」と「生かされている自分」の二つの面から自分を捉え直し、それでは自分はどう生きたい

のか、一方で社会の為にどう役立ちたいのかを考え、出来るだけその二つが融合できるように人生を歩ん

でいくのが理想の人生と言えよう。手(チョキ)    と言う事です。皆で理想の人生を歩みたいものですね。

聞く耳を持つ

聞く耳を持つことは大変重要なことです。

聞く耳を持たないと人生が暗転します。

年上の人の話や、周囲の人のアドバイスには素直に耳を傾けて聞くことが大切です。

そして自分なりに取り入れてゆけばいいのです。

話は真剣に聞くことが大切です。聞いたら実行することです。これで人生好転するのです。

ある方が乳がんになりました。知人がいろいろと経験話をしアドバイスしたそうですが、一切話を受け付け

なかったそうです。数か月後亡くなったそうです。その知人はたいそう残念がっていました。

少しでも聞いてくれたらそして行動してくれていたらと悔しがっていました。

どちらかと言えば高学歴の人が聞く耳を持たない方が多いようです。何ででしょうかね?

皆さんも「聞く耳を」持ってください。幸せになるために。

 

青春

青春・・・・・・・・サムエル・ウルマン

青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。逞しき意志、優れた創造力、もゆる情熱、

怯儒を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は

老いない。理想を失うときに初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。

年は70であろうと、16であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

曰く、驚異への愛慕心。空にきらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛

毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探究心、人生への歓喜と興味。

 

人は信念と共に若く  疑惑と共に老ゆる。

人は自信と共に若く  恐怖と共に老ゆる。

希望ある限り若く    失望と共に老い朽ちる。

 

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。

と書いています。老いて益々元気に生きたいものですね。

感謝の気持ちを忘れている

相談者の中には、自分が病気になったのは母親のせいにして恨んでいる人がいます。

母親が切迫流産しそうになり、病院で子宮をクリップして持ちこたえて無事生んでくれたのだそうです。

その処置が原因で病気になった、と自分よがりに思い込み母親を恨んでいたというのです。

それだけ母親は苦労して我慢して無事に生んでくれたのです。ですから本人はこの世に存在するのです。

もし流産していたら本人はこのよに存在しないわけです。それを思ったら母親に感謝するだけで、恨むなん

てとんでもないことです。 (-_-メ)

皆さんの中に親を恨んでいる人がいたら、それは大きな間違いです。両親・ご先祖様がいたから自分はこ

の世に存在するのです。もしそういう人がいたら即、改めてください。

すると、顔も柔和になり気持ちも落ち着いて、何事も上手くいくようになりますよ。(^_^)

この世に生きている事に精一杯感謝して生活してください。手(チョキ)

感謝の気持ちを忘れると何事も上手くいきません。

相談依頼

今日、電話で相談依頼がありました。社員の「うつ」の相談です。月曜日に来訪されます。

3月末にも神奈川県からわざわざ相談に来られたご夫婦がいます。

春は「うつ」の相談が多いです。

神奈川から来られた方は、無事会社に出勤できるようになったと連絡をくださいました。長い間病院へかかっ

ていたそうです。良かったです。摩訶不思議ですね。今回も人の為になりました。

五十にして天命を知る(論語)

「五十にして天命を知る」・・・・・・論語

子曰く、吾十有五にして学に志す。

三十にして立つ。四十にして惑わず。

五十にして天命を知る。六十にして耳順う。

七十にして心の欲する所に従えど、矩を踰えず。

「意訳」

孔子は言った。私は十五歳ころから学問を志した。三十にして、その学問についての見識を確立した。

四十歳の頃では理が明らかになり、物事に惑うことがなくなった。五十歳になって、天から与えられた使命

を自覚した。六十歳の頃は、何を聞いても分かるようになったし、差しさわりがなくなった。七十歳になって

は、心の欲するままに行うことが、いつでも道徳の規準に合って、道理に違うことがなくなった。

「五十にして惑わず」聞いたことがある言葉ですね。この言葉を見聞すると孔子の偉大さが伝わってきま

すね。我々もこう生きたいと思いませんか。

全てのものには存在する意義がある。

毎年のように悩んだり、苦しんだり、世をはかなんで自殺者が3万人以上もいると言うニュース

を見ます。この世の中に、せっかく生を受けて生まれてきたのに悲しいことであり罪なことです。

この世に存在するもので不必要・不要なものは何もありません。

人間をはじめとし、植物・動物・器具・道具など必要であるから存在するのです。

器具や道具は壊れたり古くなって使われなくなってしまうまでは必要なものです。

自分は「この世の中で必要とされていない」などと思い詰めて自暴自棄になったり自殺したりする

ことは大きな間違いであり罪作りです。

人間はこの世に必要とされない場合は、母親にお願いして胎内に宿っても無事に生まれてくるこ

とは出来ないのです。流産したりして生を受けられません。

必要とされるから生まれてこられ現在も存在するのです。

その人、ものには個々にこの世に中での役割があるのです。特に人間は個々の特徴があります。

自分に与えられた範囲の中で努力して生きてゆくことが大切なのです。今現在置かれている環境

の中で精一杯努力すれば必ず光が見えてきます。

いろいろとお悩みはあるでしょうが、何事も自分に合った問題しか起こりません。そして自分で解決

出来ない問題はないと言われています。

もう一度問題を振り返って再考してみてください。ほとんど自分の行動・言動の結果であることに

気が付くことでしょう。

私は死ぬ時のことを考えますと、年を取ってこの世で必要なくなった時(耐用年数)が死ぬ時だと

思っています。

極楽と地獄の岐かれ道。

極楽(しあわせ)と地獄(ふしあわせ)の岐かれ道。

「幸福への道」            「不幸を自分で造る人」

人も自分も尊敬できる人。         心の暗い人、不愉快に暮らす人。

常に反省し素直に改める人。       絶えず不満や愚痴の多い人。

何事も善意に解釈する人。         陰口が多く人の和を乱す人。

孝心深い人、恩に報いる人。        信仰心がなく自我の強い人。

親切で人の為によく尽くす人。       心が狭くすぐ腹を立てる人。

恥を知る人、偽りのない人。        利己的気侭自分本位の人。

生きがいを求め精進する人。        慾の強い人、自惚れの強い人。

夢と希望に笑顔で生きる人。        義理より権利を主張する人。

 

など、いろいろと書かれていますが、あなたはどちらの道を進みますか。

いろは

「いろは」とは物事の基礎、家の土台。あまり面白いところとは思えない。

何事につけ基礎訓練なんていうのは退屈です。地味で、しかし、奥が深いのが厄介です。

でも、ここをすっぽかして、楽しいかっこいい応用編から入ろうとしても無理です。

横着や焦りは禁物です。物事をきちんと修得するには、やっぱり「いろは」が大切です。

急がば回れ。最初は足腰を鍛えて、かまえが出来る様になるまでは「いろは」を学ぶ。

その後やっと、醍醐味に近づける長い道が見えてきます。その道すがら、いつでも忘れて

ならないものは「いろは」です。

修行の最後のやっとわかるのも「いろは」です。と言っています。

物事には順序と言うのがあります。順序を踏まないで何事かすると上手くはゆきませんね。

やはり「いろは」でしょうか。

相談事あり。

父親はやはり子供の事がが心配ですね。

娘さんの付き合っている男性についての相談がありました。親としてはあまり好ましく

思ってない様子でした。娘さんとの相性を知りたいとのことでお出でになりました。

次の日に、娘さんを連れて再度来てくれました。結婚は一生の問題です。それも相手に

よって左右されます。できるだけ幸せになっていただきたいと思い、お話をさせていただき

ました。納得しておかえりになった様子でした。幸せになれることを祈ります。

相談事も私の分野でないことがあります。今回、別の方からの相談もそうでしたので、その

分野に詳しい知人に相談を受けてもらいました。

なんでも相談にのりますが、私の分野でない問題はその道の専門家を介して相談を受けて

いただいています。

世の中、問題や悩みを抱えてない人はいないようですね。

悩みや困りごとは人に聞いてもらうだけでも気分が晴れるものです。

相談ごとをを聞いてあげられる私は幸せです。感謝・感謝です。手(チョキ)

見ザル・言わザル・聞かザル。

久し振りの日光東照宮です。

左甚五郎の作と言われる彫り物を撮ってきました。

何を言わんとしているのやら・・・・・・。

日光三猿眠り猫歴史を物語る杉
 三猿                    眠り猫                    苔むした杉 

見事な彫り物ですね。苔むした杉の根基、歴史を感じます。

苦は楽しみの種。

苦は楽しみの種・・・・・・・徳川光圀

一、 苦は楽しみの種、楽は苦の種と知るべし。

一、 主人と親とは、無理なるものと思え、下人は足らぬものと知るべし。
        無理なるもの=理屈が通らないもの。

一、 子ほど親を思え、子なき者は身にたくらべる、ちかき手本と知るべし。
         身にたくらべる=自分の身を思う気持ちとくらべてみる。

一、 掟におじ怯じよ、火におじよ、分別なき者におじよ、恩を忘るる事なかれ。
             怯(お)じよ=恐れなさい。

一、 慾と色と酒とをかたきと知るべし。」

一、 朝寝すべからず。話の長座すべからず。

一、 小なる事は分別せよ。大きなる事は驚くべからず。

一、 九分にたらず、十分はこぼるると知るべし。

一、 分別は堪忍にあるべしと知るべし。

光圀は恩を忘れるなという。まさにその通りで、日本人が他人を評価するときの最終的

な基準は、能力があるかないかではなく、「恩知らず」であるか、それとも「恩に報いる心

を持っているか」である。人間の値打ちがこの二つで最終的に決まる。

いかに有能であっても、「恩知らず」となれば、人が遠のいていく。逆に少々能力に劣って

いても、恩を忘れなければ一目置いてくれる。

自分を生かそうと思えば恩を忘れない。このことは、光圀の言を待つまでもなく、時代を超

えて、日本人社会で生き抜く根本である。 と書かれています。  ・・・・反省します・・・・

 

調子にのるな

勢い、使い尽くすべからず」と言う言葉があります。

誰でも勢いにのっている時は、調子に乗って突っ走る傾向があります。

そんな絶好調の時こそ細心の注意をし、行動を慎むようにという禅語です。

勢いにのっている時は、力まかせに普段の用心深さも忘れ、人の助言も聞かなくなって

いるものです。

勢いあまって本来の目的以外にも鉾先を向ける。勢いあまってついてくる人たちを見失う。

勢いにまかせていると、弱いものが見えなくなる。勢いが人を傷つけ、自分の首を絞める

言動に走らせる。だから、腹八分目でやめておく知恵が生まれたと言われています。

歴史を振り返れば、勢いに陰りがさすのは敵側の要素ではなく、きまって自分が原因。

怪我や病気もそのうちです。と書いてあります。 慢心するべからずですね。

先人の知恵は素晴らしいと思いませんか。

「光陰如矢」

禅語集を読んでいる中の言葉を記載します。

「光陰如矢」:こういんやのごとし。

聞いた言葉ですね。禅語では、光と陰とは、太陽と月のこと。

矢を放ったごとく、目くるめく過ぎ去ってゆく毎日。

何万年たっても一日も後戻りすることはありません。ただ太陽は急ぐ様子もなく

、なにくわぬ顔で輝いています。また月も同じように音も立てず慌てず、美しい

満ち欠けを見せてくれています。

こんな天体(宇宙)のリズムに波乗りのように乗ってしまいましょう。

自分の小さな考えの中で自転して、空回りした時間を過ごしてしまわないように。

一日一度は空を見上げて、天体のリズムを感じてみてください。

決して「急げ急げ」とは言っていないはずです。

と解説しています。

 

宇宙のリズムに合わせて、自分のリズムとした方が良い結果が生まれるのでは

ないでしょうか。だって人間は宇宙の生き物ですからね。

滅却心頭火自涼

禅語を読んでいる時に、震災被害で困って悩んでいる方々に頑張れる言葉としてこの1節を

記載します。

「心頭滅却自涼」:しんとうめっきゃくすればひもまたおのずからすずし。

心が積極的になって無心に徹すると、火の中でさえ涼しく感じるという意味です。

夢中で物事に没頭すると、暑さ寒さを忘れる、そんな経験はありませんか?

炎天下で人と待ち合わせをして相手が遅れてきたら、暑くて暑くてだんだん腹が立ってきます。

しかし、同じ炎天下で、こんがり小麦色の健康な肌に焼こうと思ったら、太陽の暑さが喜びに

変わる。苦悩とは、こちらがどういう心で相対するかで随分と違うものになるのです。

苦悩から逃げると、苦悩はいつまでも苦悩のままで存在します。

だから、苦しいことからはむしろ逃げないで立ち向かう。集中力と勇気が必要ですが、いつまで

も悩んでいるよりその方が楽ですよ。

さあ、クルッと後ろを振り向いて、追手と対面。

と言われています。

感謝でいっぱいです。

年末年始に、多くの皆様からお気遣いを頂きましたことに感謝申し上げます。

昨年も年越しそばの評判は上々でした。やってよかったです。

正月の毎日の来訪者、これにはビックリしています。

皆さん楽しく食べて飲んでお帰りになっていただいています。

こちらも楽しい思いをさせていただき感謝しています。

やはり、人は「自利利他」の心境で生きることが大切です。

今年も良い年が訪れそうです。皆で頑張りましょう。

一年間有難うございました。

このコーナーをご愛読いただきましてありがとうございました。

今年後半、多忙にかこつけて大変内容が伴わなくなって申し訳ありませんでした。

来年は、皆様のご希望に添えるよう頑張って書きます。

全てにおいて2012年も多忙な時期となりそうです。

私も年ですので残りの人生を一日一日大切に生きたいと思っています。

皆様のご支援を宜しくお願いいたします。

皆様にとって2012年が良き年でありますことをご祈願いたします。

おかげさまで

今年も残り少なくなってしまいました。

「おかげさまで」無事今年も終われそうです。

毎年この時期には、今年一年どれだけ人の為にできたか、と振り返ります。

一年間いろいろなことがありました。今年は特に大震災の被害に多くの方々が

見舞われました。東北の方々に比べれば自分の所の被害は微々たるものでした。

自分なりに、仕事においても、相談事においても一年間皆様のお役に立てたのでは

ないかと思っております。

また来年も、今年以上に人間として元気で健康に過ごせる以上、感謝の心を忘れず

に「徳」を積み重ねて行きたいと思っています。

どうか皆さんも、短い一生を周囲の人々の為に精一杯生きてみませんか。

今年一年、皆様からのご愛顧ご支援に心より感謝申し上げます。

人生に近道なし

禅語を読んでいると「人生に近道なし」の言葉を見つけました。

平常心是道((へいじょうしんぜどう)

平常心とは、当たり前のことの積み重ねと言う意味です。道を極めるというのは、

特別なことを頭で考えてウルトラCを修得するという事ではない、と言っています。

人生に近道はないとあきらめて、あたり前のことを大切に育む日々が平常心です。

あたり前のことをずっと続けることが物事を極める極意のようですね。

心のよりどころを求めて

震災で被害を受けた東北各地を「青空説法」を続けている瀬戸内寂聴さんの映像を毎日

テレビで見ています。90歳に手が届く年齢であそこまで元気でいられるのに驚きです。

青空説法には数十人から場所によっては1500人もの聴衆が集まるようです。

皆さん震災で沈みがちな気持ちを、如何にして明るい気持ちに替えようかと説法を聞きに

来るのです。何時も沈着冷静に笑顔で本音で話される寂聴さんの話に聞き入っています。

素晴らしいことではありませんか。その中で「笑顔が一番大事」と言っておられます。

困った顔は不幸が好きでどんどん不幸が寄ってくる、笑顔は必ずいつか幸せが訪れると

説いていました。困ったときは笑顔を忘れないことですと言います。

本当は高名な住職の皆さんが現地を訪れて説法して頂きたいなと思います。

結局日本人が最後にすがるのは「釈迦の教え」仏法ですね。

私も少しでもお役にたてたらと思っています。

話し合う中から信頼が生まれる。

今日、工事に行ったお客様の話です。前回依頼した業者にひどい目にあったと言う

話から、詳しく聞いてみると「本当に?」と言うくらいひどい話でした。

今回も、はじめは疑問を持っていた様子です。しかし、お茶の時間などに世間話など

しているうちに2日目になって信用してくれたようです。

工事終了の日に片付けが終わると「お茶をどうぞ」と声をかけてくれました。お茶を頂

きながら話をしていますと、ご主人が「やはり話し合うと信頼関係ができますね」との

一言を言いました。まさにその通りです。先入観を持って人に接するとなかなか信頼

関係は出来ません。お互いに、いろいろ話し合うと相手を理解でき信頼関係を築くこと

ができます。誤った先入観は互いに不信を招くだけです。

すばらしく生きること

「人生の知恵」なる本にちょっと目を通したら次のような文章に出会いました。

人が何らかの目的に向かって出発するとき、その拠り所となるのは、自分自身の内部にし

か見いだせない。私は何者であるか、と自らに問うことから、人生のすべては始まる。

私とは何か?。何らかの事柄を慾している者である。慾している、とまで気持ちが固まって

いなくても、少なくとも何かを期待している者である。期待、と言うほどには強くなくとも、何か

を、いくぶんたりとも、好ましく思っている者である。そうだ、それこそが自分自身である。

好ましいと思う方向へ動き出す、それが生命力なのである。

人間は、自分が嫌いであることを、外から上から命じられても、十分には効果を上げること

ができない勝手者である。しかし、自分の内部からこみあげてくる意向に従うとき、おもいも

よらぬ成果を生むことになるだろう。なにかをしたい、何かになりたい、何かが欲しい、何か

が好もしい、この気持ちのうずきを自分で見届けることから、一人一人の人生が始まる。

その自分の内部の気持ちのうずきを、それを意慾と名付けよう。人間とは、生きている者で

ある。生きていることは、意慾を持っていることである。自分の意慾を大切に育てる努力、

それが人生である。自分の意慾に忠実であること、それが素晴らしく生きることである。

以心伝心

人に会うとき、自分で相手を「嫌いだ」とか「いやだな」と思う気持ちで会うと(怨憎会苦)その

気持ちは必ず相手に伝わります。そして、相手も同じ気持ちになってしまいます。

わだかまりや先入観や第一印象の良し悪しなどの気持ちを捨てて、ただ普通に人に会う

(男・女の区別なく)という気持ちが大切ではないかと思います。

難しいことですが一度試してください。総てが上手くゆくこと間違いありません?

みっともないですね。

たった9日で辞任した大臣。

大臣になって舞い上がってしまったのでしょうか?

軽い・自覚がない・相手の気持ちを察せない。こんな人が国会議員、そして大臣だなんてチョ

ット情けないですね。日本の将来が危うい。

己を知り、相手を思いやる、感謝の気持ちを忘れない。この基本を忘れてはいけませんね!

震災に続き水害の被害。

今年は、想定外の地震被害と今回の台風による水害による被害。自然災害の被害が続いて

います。被害にあわれた方々に対してお見舞い申し上げます。

今後も自然災害(特に水による災害)が懸念される年です。大雨による水害には十分注意しま

しょう。特に小さな子供の被害には心痛みますね。災害が起こるたびに死者や行方不明者が出

てしまいます。危険な場所には絶対近づかないことです。

やはり感謝するしかないです。

マミーが10日間入院しました。おかげで主婦業を10日間しました。

しかし主婦業は大変ですね! 朝、電気がまのスイッチを入れ、洗濯機を回し、お茶を沸かし

食事の準備、ペットの餌・トイレ掃除・・・・・・

これを10日間しました。一人で朝ご飯が寂しいので、孫に来てもらって一緒に朝食をしました。

今日、退院してきましたので安心して、どっと疲れが出ました。

主婦には感謝です。つくずく思いました。

あなたは、感謝してますか!

明日から9月です。台風が接近しそうですね。台風対策をしましょう。台風

体調管理に注意

低気圧の接近で急に涼しくなってしまいました。先日の暑さは何だったんだろう?

今週は男性二組の相談来訪がありました。相談者で男性は少ない方です。

この時代、皆さんそれぞれにご苦労が多そうですね。

相談者の特徴として、男性は特に「真面目」な人が多いです。真面目な方ほど考え込んで

内向きになってしまうようです。一人で、しまい込んでしまうようです。講じると「うつ」になって

しまいます。もうやだ〜(悲しい顔)  ふらふら

なんでも一人で悩んだり苦しんだりしないでご相談ください。わーい(嬉しい顔)となります。

なかなか取掛れません。

お久し振りです。

「般若心経」の掲載が終わってホットしたままになっています。

猛暑・疲れなどのせいでしょうかね、次の題材に入ることがままならない状況です。

相変わらずご相談の対応はさせていただいておりますが、ブログの方はパットしません。

もう少ししたら、もっといろいろな本を読んで何とか始められると思っています。

暑さの厳しいこの頃です、皆さんどうぞお気を付けてお過ごしください。

体調に留意しましょう

暑さもまだ続きそうです。

体調を崩し、生まれて初めての苦しい経験をしました。

何と言っても健康が一番です。つくづく今回は感じました。

皆さんも自分の健康に気を遣いこの夏を乗り切りましょう。

こんなに大きくなりました。

猫のモモは今月で生後10か月になりました。

かなりやんちゃです。でも親子で仲良くやっています。

これを見て癒されてください。

モモ生後10日  ミミとモモ
生後10日目                   現在です。

今でもこうして時どき一緒に寄り添って昼寝をします。

 

心のケア

人生悩みや困りごとは尽きないものです。

連日のように多くの皆様から、メールや電話、来訪とご相談を頂いております。

その中身は多種多様に及んでいます。私自身も大変勉強になっています。

お礼の電話やメールを頂いたときは、本当にやっていて良かったと実感します。

まだまだ未熟な私ですが、これからも皆さんのお役に立てるよう老骨にムチ打って

頑張ります。

どうぞ一人で悩まないで、些細なことでもご遠慮なくご一報ください。

気分いいです。

仕事が順調に進み消化できるとストレスが溜まらなくなり気分いいですね。

今日は、見積もりした工事が施主さんとじっくり話し合い納得いただき決まりました。

施主様の立場に立って誠心誠意でお話ししますとほとんど納得いただけます。

仕事は金儲け主義ではなく、粋に誠意ですることが大切と常に感じています。

お金は後から附いてくるものと思って仕事をしています。

外は雨ですが気分が爽快です。

般若心経に学ぶ  最終回です。

今回で「般若心経に学ぶ」は終了です。では最終回の解説です。  

*波羅僧羯諦  もう迷いの世界へは戻らない

ギャーテー・ギャーテーで彼岸への道が始まったのですが、途中でとどまってし

まっては何にもならない。

したがって、「波羅僧羯諦」パーラ・サンガテー、となる必要があります。

彼の岸へと完全に到達した、ということであり、もう再び迷いの世界へ舞い戻っ

てこないことを意味しています。


*菩提娑婆訶 悟りの世界へ着いた めでたし

「婆娑訶」スパーハーというサンスクリット語の音写。

意味は、吉祥・円満・成就、といったことですので、“めでたしとか“やり遂げ

たとかと訳されている。

 

*般若心経  

これで「般若心経」という仏(釈迦)の説教も終わる。したがって、これでお経

も終わりですよ、という意味を込めて再度経題が出されてきます。

以上で「般若心経」の解説は終わりです。  合掌。

 

長い間ご訪問いただき、お付き合いを有難うございました。お経は意味深いものです。

生きてゆく人生の指針として、忘れていた自分を取戻して頂ければ必ず光が見えてくる

ことでしょう。

この解説は、著者 花山 勝友師の著書より引用させて頂きました。 感謝申し上げます。

やはり子供は可愛いですね

3日間ばかり託児所の内部仕事をしてきました。

子供たちは私どもの仕事に興味津々です。「おじさん何やってるの」何にでも興味があります。

一人でトイレに行ききちんと洗剤で手を洗っています。2〜3歳ぐらいの子です。

床にお尻を付けてパンパースやズボンを一人で穿いています。その仕種が可愛いですよ。

「お利口さんですね」とつい口から出てしまいます。声をかけるとニコニコしています。

仕事をしながら癒されてきました。

般若心経に学ぶ 最終節

*第十節  安らぎの世界へ飛翔!

いよいよ般若心経も最終となりました。

故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰  羯諦 羯諦 波羅羯諦 
こせつはんにゃはらみつたしゅ  そくせつしゅわつ  ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい

波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経
はらそうぎゃてい   ぼうじそわか   はんにゃしんぎょう  

《現代語訳》

さてそこで、智慧の完成の真言を最後に出しておくことにしよう。すなわち、その真言とは

次のようなものである。

“往き 往きて 彼岸に往き 完全な彼岸に到達したものこそ 悟りそのものである めでたし

「智慧の完成についての最も肝要な教えを説きし聖典」


*羯諦 羯諦  彼岸への第一歩を踏み出した

 いよいよ般若心経も終わりに近づいて、「これまでは説明、これからは真言ですよ」、

すなわち、その真言とは次のようなものですよという意味です。

これは、経典翻訳者の玄奘三蔵が、わざわざ中国語に翻訳しないで音写の形で残

したのです。

意味は(この迷いの世界からあの悟りの世界へと)往った。という事です。

まさに彼岸への第一歩を踏み出したのです。

 

*波羅羯諦  真言とは悟りの内容を示す秘密の言葉

真言は悟りの内容を示してはいるが、単なる言葉としてしか私達には迫ってこない。

ですが、この言葉は永久不変なのです。時間を超え、空間を超え、多くの人間が生き、

死んでいくものの、これだけは変化しないし、なくならない。

羯諦  =往き

羯諦  =往き

波羅羯諦=彼岸に往き

真理そのものは、何万言ついやしても表現できない。ただひたすら、聞き、口に

することだけなのです。

般若心経に学ぶ 第九節のつづき

第九節のおわり

*「能除一切苦」 正しい智慧こそが一切の苦を取り除いてくれる。

*「真実不虚」 一切は空、と受け止めなさい。

 今までの経文によって理解すると、真実とは、この世のあらゆる存在や現象を、

“空すなわち実体なきもの、と受け止める事であり、その反対こそが虚妄というこ

とになるでしょう。

すなわち、“空を理解して悟りの境地に到達することこそが真実であり、その真実

に導いてくれるのがこれから説こうとする真言であるから、それ以外のものはすべ

て虚妄なのです。

つまり、とらわれの心を捨てて世の中の本当の姿を見る事が出来る・・これが真実

なのです。

私たち人間は全知全能ではない。自分の持っていること、知っていること、できる

とをすべて吐き出したとしても些細なものでしかないのです。

現在、人間は肉体と心という制約があるために、さまざまな本能と欲望によって苦

しめられています。もし、これらの本能や欲望を捨て去ることが出来たら、本来

“仏の種としてある仏性が外に出てきて、“最高のこの上なき悟り(阿耨多羅三

藐三菩提)の境地に入ることが出来る。すべてのものの真実の姿を見通すことが出

来るし(智慧)、どんなことでも成し得る能力(慈悲)を兼ね備えた存在になるこ

とも可能なのだ。と信じたのです。

でも、そんなことが本当に出来るのでしょうか? できるのです。

その証拠が、釈尊を含めた過去の仏であり、智慧の実践を説いた経典なのです。

要は、釈尊の存在を信じることが必要なのです。

仏様が我々平凡な人間に遺してくれた“真実の言葉すなわち“真言(呪)を唱え

てみようという事になるのです。もう理屈ではないのです。

次回から、いよいよ最後の第十節に入ります。
 

般若心経に学ぶ 第九節 つづき

*「故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪」

お経を読むと、「得阿耨多羅三藐三菩提」の次に「故知般若波羅蜜多・・」と続く。

この「得阿耨多羅三藐三菩提」が仏教の目的である以上、多くの経典の中では最後

の部分にこの言葉が出されてきます。

「般若心経」の場合も正にその通りで、そろそろ終わりに近づいたことを意味します。

「呪」という句は、普通一般に用いられている意味での“おまじないや“のろいと

いった意味ではないです。

真理を文字に表わしたもので真言の意味です。が、人間が期待しているものは、お

まじないによる効果と似たようなものである、といった点では類似性を有しています。

大神呪 :偉大なる真言。「すごいんだよ」

大明呪 :悟りのための真言。「全くすごいんだよ」

無上呪 :最高の真言。「最高だよ」

無等等呪 :比類なき真言。「他とは比較にならないくらいすごいんだ」

と訳していますが、要は般若波羅蜜多がいかに優れた真言であるかを、形容したと

言葉として考えてください。

般若心経に学ぶ 第9節 つづき

*「得阿耨多羅三藐三菩提」 “完全にして正しい知恵を得る。

 この言葉は、多くの経典の中に出てくる言葉で、仏教という宗教にとって、これほど大切な

言葉はない、と言ってよいほど重要な句です。

これこそが、仏教の最終目的である仏陀に到達した者が得ることが出来る、完全にして正し

い知恵、すなわち「般若」の智慧なのです。

般若心経に学ぶ 第九節

 いよいよ般若心経も最終を迎えます。

*《第九説》 あるがままに生きる素晴らしさ
 
三世諸仏   依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅 三藐三菩提    故知般若波羅蜜多
さんぜしょぶつ  えはんにゃはらみつたこ  とくあのくたら   さんみゃくさんぼだい  こちはんやはらみつた

是大神呪   是大明呪   是無上呪   是無等等呪  能除一切苦  真実不虚
ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ  ぜむとうとうしゅ  のうじょいっさいく じんじつふこ

(現代語訳)

過去・現在・未来の仏たちは、智慧の完成を実践するので、この上ない最高の悟り

を得ることが出来るのである。したがって、智慧の完成という実践行こそが、偉大

なる真言であり、悟りのための真言であり、比べるべきもの無き真言であり、これ

こそがあらゆる苦しみを除き、真実にして虚妄ではないものだ、と言うことが出来

るのである。と訳しています。

*「三世諸仏」 三世諸仏の一人がお釈迦さま。

仏陀と呼ばれているのは釈迦だけではないのです。仏にも過去仏・現在仏・未来仏

と大きく三種類に分けられています。これが三世諸仏なのです。

過去仏(過去七仏)の中で第七番目を釈迦牟尼仏としている。

過去仏に対して未来仏は、弥勒菩薩(みろくぼさつ)は釈迦牟尼仏の次にこの地上

で仏になると説かれています。弥勒菩薩が次に地上に現れるのは、何とその時期が

釈迦入滅後五十六億七千万年経過してから、ということになっています。

現在、弥勒菩薩は兜率天において修行していると言われている。

その間を、無仏時代とよんでいます。その期間に生まれ死んでゆく無数の人々を救

済するために現れる菩薩が地蔵菩薩であると言われています。

このように、未来仏としての弥勒菩薩、無仏時代の救世主としての地蔵菩薩、とい

う二人の菩薩に対する信仰は現在に至るまで、多くの像が造られて拝まれ続けて

いるのです。

 

「兜率天」(とそつてん)

仏教では天界を、欲界、色界、無色界に分けている。兜率天とはそのうち欲界の一つ

である。

釈尊もかつて兜率天において修行していた。

 

《如来》

釈迦如来 : シャカ。釈迦牟尼仏ともいう。

阿弥陀如来:無量寿如来、無量光如来ともいう。西方極楽浄土の主。

薬師如来 :正式には薬師瑠璃光如来という。東方瑠璃光世界の主。病苦の人々を救う。

毘盧舎那如来:盧舎那仏(びるしゃな)ともいう。大仏のこと。宇宙全体の華厳世界の主。

大日如来 :毘盧遮那如来が「大日経」において説法するとき、この名称を使う。

般若心経に学ぶ 第八節 まとめ

「あるがままに生きよ」

私たち人間にとって悟りの境地とはどんなものなのでしょうか?

仏教では“煩悩を取り除いて、悟りの状態である仏陀の境地に到達することを目的

としています。それは何も、この世を否定するものでもなければ、早く死ね、と言

っているわけではありません。


“そのままの状態で ”人間の生きている意味を見つけ出すことなのです。

われわれ人間は、すべて自分自身の“色めがねを持っている。そのままの状態

で物事を受け取ったり、判断することが出来ないのです。

“親だから、大切にしなければ

“恋人だから、優しくしてあげよう

“自分の仕事だから、真剣に取り組もう

”ご近所だから、挨拶をかわそう

この“だからというのが“色めがねなのです。


この論理からいえば親でないから恋人でないから優しくする必要はないとなる。

このような相関関係の中で判断するからこそ、迷いもすれば、苦しみを味わうこと

にもなるのです。

この世の中を、そのままの状態で見つめ、あるがままに生きる・・・・これこそが、

涅槃の境地なのです。


すべてが無なのですから、親・子供・恋人・も無い。仕事・金銭・地位・名誉な

どもない、すべては「空」なのだ、と言っている。

この静寂な境地に到達すれば、もう人間世界の巨大な歯車の中で、個性を埋没して

生きることなどなくなるのだ。何物にもとらわれず あるがままの姿で生きよ

そう教えてくれているのです。

心からわだかまりが消えたら(心無罫礙)、そこに自由の世界(涅槃)が待って

いるはず。


なんの恐ろしさも感じない(無有恐怖)、誤った考えもしない(遠離一切顛倒

夢想)。こんな境地が自分に訪れたら、きっと素晴らしいでしょう。

そこには、自分を利するといった功利的な考えはない。

色めがねを持っていると、執着心という不幸を背負っているし、苦の原因を自ら

作り出していると言えるでしょう。

人間は、本来一人なのです。有利だとか不利だとか、そんなものとは関係なしに、

一個の人間として存在しているのです。

 

与えられた、限りある「生」の中で、人間の我執を捨てなさい、そうすれば本当の

自由の境地に一歩でも近づけるのですよ、と仏は説いているのです。

世の中の真実を知り、心についた一切のカキを払落すよう努力しなさい・・これが

お経の言わんとしていることなのです。

なるほどとは思いますが難しいことです。でも少し努力してみませんか。

般若心経に学ぶ 第八節 -5-

第八節

*「究竟涅槃」  涅槃とは“死すること生きるが如き境地。

ゴータマ・シッタールタは、今から約二千五百年前に北インドの小さな国の王子に

生まれた。二十九歳の時に出家し、六年間の修行の後、三十五歳の十二月八日の早

朝、この世の真理に目覚めて、“悟りの境地に達し、そして”めざめた者すなわ

ち“仏陀になったと言われている。

“涅槃という言葉は、釈尊が死んだことを意味する言葉として用いられていますが

本来は,“滅とか”寂静と訳されています、静かな状態を表す言葉です。

菩薩の段階に達した者も、やがては心が平常になって、永遠に迷いの世界から離れ

ることになる、というのが、「究竟涅槃」の意味となります。

釈尊は三十五歳の時に涅槃に到達したのですが、八十歳で死ぬまでは、肉体は生き

続けていたので、いくら煩悩の炎を吹消したと言っても、生きる為には食べること

も、寒暑や、肉体の苦痛までがすべて感じられなくなった分けではない。それは完

全な涅槃ではなかった。

そして八十歳で肉体が消滅したときに、身体の本能的機能までが働かなくなったの

で、完全な涅槃となったのです。(釈尊の死んだことを入涅槃とよぶ)

涅槃の状態を“生死一如といい。死すること生きるが如き境地という事だそうです。

われわれ人間は誠に残念ですが、生きている間にすべての欲望の炎を吹消すことの

できる分けはありません。やはり私たちは、自らの煩悩によって苦しみ続けなけれ

ばならないのでしょう。

悩むより行動する

大阪の誰かさん、気分はどうですか?

長い電話でしたが、いくらか気分は晴れましたか?

沢山悩むよりまず行動に移しましょう。行動すれば悩みは薄れますよ。

先を見て明るく行動してくださいね。きっと未来は開けますよ。

又何かありましたら何時でも連絡ください。一緒に悩み一緒に解決しましょう。

あなたの明るい明日を祈願いたします。

般若心経に学ぶ  第八節 -4-

*「遠離一切顛倒夢想」 一切の誤った考え方から遠く離れなさい。

 人間はこの世に生をうけてから、二十年経てば成人、つまり大人になります。成人

 するというのは、以後の人生を自分の責任において切り拓いてゆく、という事です。

 しかし、人間は全知全能でもなければ、万能でもない。たった数十年の体験で得た

  ものだけに頼って、物事の正邪を決めるのは、浅はかでしょう。

  偏った心からは、偏った見方や行動しか生まれてこない。

  まず、自分の無力さを認めることです。考え方にしても、語っている言葉にしても

  すべて親・友人・そして多くの先達が残したもの、すべてが他人からの受け売りに

  すぎない。

  一切の誤った考え方から遠く離れなさい。と仏は言っているのです。“顛倒した夢

  想など、しょせん、仏の掌の外にすら出られないものなのだ。と言っています。

  偏見から離れなさい、そうすれば涅槃の境地に行けますよ、と示瞬しているのです。

  自分の持つ偏見を無くすことは難しいですが、無くす努力が大切なのではないでしょうか。

 

般若心経に学ぶ 第八節 -3-

  *「無罫礙故 無有恐怖」 平常心をもてば恐怖心はおこらない。

 恐怖心は、自分が所有しているものを失うのではないか、と考えることからも起こ

  ってくる。

  一人で夜中に道をあるいていても、奪われる何物をも持たない者にとっては、何の

  恐怖も感じない。(しかし、命を奪われるのは怖いですよね・私語です)

  つまり、「無罫礙故 無有恐怖」なのです。

  持てる者の悩みと言いますが、お金にしても物にしてもあればあるほどそれを失

  うことに恐れや苦しみを感じるものです。人間の欲望には際限がないのです。

   焚くほどに 風の持てくる  落ち葉かな

  この良寛さんの読んだ句の心境のように、今日生きてゆく糧さえあれば満足する境

  地になることこそが本当の幸せなのだ。と言っています。しかし、必要ないほどの

  落葉をかき集めて、それでも足りない足りないとせっせと貯め込んでいるのが現実

  であります。貯め込んだらそれを失いたくないと、鍵をかけ大切にしまい込んで、
 
  その上、もっと貯めようとあくせくしているのが人間の姿です。

  物や財産に対する執着心を持っていなければ、たとえどれほど多くのものを失おう

  とも、何も苦痛を感じないし、初めから何もなければ、失う心配はないことになり

  ます。

  菩薩の状態に達した者は、あらゆる物に対して執着心が無いのですから、心に何も

  わだかまりもなく、常に平常心を保っていることが出来るのです。

  つまり「恐怖あること無し」なのです。  菩薩は凄いですね。

般若心経に学ぶ 第八節 -2-

*「心無罫礙」 心静かな状態。心に妨げがない。

 心静かな状態とは、どんなことを言うのでしょう?

 恐怖について考えると。

 恐怖の対象と言ったら何でしょう。

 地震・雷・火事・洪水・嵐・飢饉(干ばつ)といった自然現象の他に、戦争・

 泥棒(強盗)・貧乏といった人災、そして、老・病・死という、誰もが避ける

  ことのできない現象の三つではないかと言われます。

  考えてみると、これらのすべての恐怖の対象は、最後の死に結びつく可能性が

  あるからこそ怖いのであって、それが死と直結しないと分かれば、ある程度恐怖

  は薄れるはずです。

  かつては、お化け・幽霊・悪鬼・たたりといったものも恐れられていましたが、

  その理由は、人間の生命を脅かすもの、といった考えからでしょう。

  なぜ、目に見えない何物かが恐ろしいのか?

  常にこちら側に恐怖心があるからであります。つまり、心にさまたげ(罫礙)が

  あるからこそ、よく見ると何という事もないものに対してでもこわいと錯覚して

  しまうのです。

  放射能の恐怖を日本人は経験し、また目の当たりに見ているので、いくら目に見え

  なくても、「心無罫礙」と言っても恐怖心を感じないわけにはいきませんね。

般若心経に学ぶ 第八節 -1-

*「菩提薩埵」 悟りを目指している者という意味 。 

  菩薩も特定の人を指すのではなく悟りを目指している者すべての総称です。

  (菩薩:修行中の者)→ 仏陀:悟りを開いた者)

  弥勒菩薩  未来の救いの象徴。

  観世音菩薩 衆生を救う慈悲深さの象徴。

  文殊菩薩  智慧の働きの象徴。

  普賢菩薩  仏の実践行と誓願を象徴する。

  虚空菩薩  智慧と福徳の象徴。

  地蔵菩薩  無仏時代の救いの象徴。(現代)

般若心経に学ぶ  第八節

 今回から第八節です。

*第八節  自由でおおらかな心を

菩提薩埵 依若波羅蜜多故 心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
ぼだいさった      えはんにゃはらみたこ         しんむけいげ    むむけいげこ   むうくふ

  遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
  おんりいっさいてんどうむそう     くきょうねはん

 

(現代語訳)
  かくて悟りを求める者たちは、智慧の完成という実践行に従っているので、心は

  何の妨げもなく、妨げが無いから恐れがなく、すべての誤った考え方から遠く離れ

  ているので、最後には永遠にして静かな境地に到達することになるのです。

文豪の言葉

文豪とか巨匠、名優などと言われる人はいろいろな言葉を残しています。

今日は、今回読んだ本の中にあった文豪、吉川英治の言葉を紹介します。

われ以外のもの、すべてがわが師素晴らしい言葉ですね。

こんな心境になりたいものです。

般若心経に学ぶ 第七節 まとめ

前回に引き続き「無」「空」の内訳を教えています。

「空」とは実体のないことです。

  花はくれない 柳はみどり

という言葉がありますが、だから花は美しく、柳は新鮮に映る。はいいのですが、

仮に、くれないの花のほうが他の色の花よりはるかに美しい、柳の木は新鮮ですが、

枯葉をつけている他の木々はきたない、という評価になると。人間の価値判断が

加わってくることになります。(ここが大切なのです)

悟りの状態に到達したものは、この世のあらゆる存在や現象に対して、そのような

判断はしない。

“すべての物をあるがままに見ることが出来るようになるのです。これはすべての

物に対する執着心とか所有欲といったものがなくなるので、あそこに木があり

ここに川があるという受け止め方をするだけなのです。

あるがままに見る

眼からうろこがとれた境地には並大抵の努力では到達できませんが、だから、一歩

でも二歩でも現実の生活の中で近づく努力をしてみよう、と考えることが大切なわけ

です。

一人の人間を見るとき、男性か女性か、老人か若者か。美しいか醜いか、といった

ものを超えることが出来たら・・・・・。一度試してはいかがでしょうか。

あるがままに見る 簡単そうで難しいことですね。

般若心経に学ぶ  第七節終わり

*「無智亦無得 以無所得故」 
                 (人間はもともと得るものが無いのだから、智も得もない)

人間は誰でも生まれたときは裸です。持ち物も何もない。人間は“本来無一物の存在です。

ところが裸で生まれてきた人間も成長するに従い、必要な生活必需品、すなわち、最低の

衣・食・住が与えられる。また自分の力で手に入れることによって、いつの間にか、「僕

の物」「私の物」といった我執が生まれ、「他人の物」と区別するようになる。


しかし、よく考えてみると、いかにも自分の力によって得ることが出来たように見える知識

や教養・学問といったものさえも、すべて他人によって与えられたものばかりであります。

社会の中で生きている以上、互いに助けられたり助けたり、という関係で毎日を過ごすこと

になるのだから、“自分だけの力で得ることが出来たものなんか何一つないのです。


ただ単に“縁によって与えられたものを一時的に所有させてもらっているだけなのです。

こう考えれば、自分の獲得した知恵や物であったと信じていたものも、結局一時的な借り物

に過ぎなかった、という事が理解出来るのではないでしょうか。


したがって、本来無一物であるわたくしという人間に、“私の智慧(智)、“私の物(得)

などと言えるものは何一つなかったのだという事です。

般若心経に学ぶ 第七節つづき

第七節つづき

*「無苦集滅道」 四つの真理すらも“空である。

 迷いの世界には、四苦八苦というような、様々な苦しみが満ちています。その苦しみを断

 ち、悟りへと導く方法を説いたものが、“四諦とよばれる四つの真理、お経の中に出てく

  る「苦集滅道」です。

 
  なぜこの世が“苦であるか?それは、渇愛とよぶべき、人間の執着心があるからです。
 
  それを“集とよぶ。

 
  では、その苦の原因を滅さない限り、いつまでたっても苦しみはなくならないはずです。
 
  そこで、苦の原因である渇愛を滅ぼし尽くそうというのが“滅です。そして、どうしたら
 
  人間の持っている執着心を無くすことができるのだろうか?それを説いたものが“道です。

 
 “道には全部で八つの方法があります。“八正道(はっしょうどう)とよばれています。
 
  苦の原因を滅ぼすための八種の実践方法です。

 1) 自己中心の見方や、一方的に偏った見方をしないで正しく真実を見ること。

     (正見)(しょうけん)

 2) 自分本位の考え方をせず、大きい立場から、真理に照らし合わせて考えなさいという

      こと(正思または正思惟)(しょうし・しょうしゆい)

 3) 正しい真理・法則に従い真実の言葉をかたる(正語)(しょうご)

 4) 正しい真理・法則に従い行為を行う(正業)(しょうごう)

 5) 正しい職業、正しい収入で暮らしを立てること。(正命)(しょうみょう)

 6) 正しい使命・目的に対して、正しく励み、努力し、怠ったり、脇道へそれたりしない。

     (正精進)(しょうしょうじん)

 7) 正しい教えのみ、真理、法則を見、強く思うこと。(正念)(しょうねん)

 8) 心を常に正しく置き、周囲の影響や環境の変化によって動揺することが無いようにす

      る。(正定)(しょうじょう)

  以上の八つです。


八正道の言おうとするところは、人間の行為のすべてを、それが身体での行為であれ、口

で行う行為であれ、さらには心で行う行為であれ、正しくせよ、ということです。

正しくさえすれば、自然に執着心は消滅し、この世の苦しみはなくなり、やがて悟りの境

地に到達できる、というのです。結局のところ、この世を苦しみと感じる事さえも、自分

自身がまだまだ執着心を持って、苦と楽とを差別している、ということに気が付く必要が

あるでしょう。人間の苦の原因の根本は「執着心」と言えるのではないでしょうか。

ちょいといい話

苦しさを かたる言葉に 安堵あり。

聞く耳を 持たない人に 悩みあり。

子ができた 知らせをもらう 喜びよ。

感謝です 感謝です すべてに感謝する気持ち。

釣れても釣り 釣れなくとも釣り。

 

この前、何かで見かけたのでメモしておいたものです・

死について

知人の夫婦のご主人が六年の闘病生活の末73歳で亡くなられました。

奥様にお会いしましたが、寂しさが募りますが6年間の病院通いは大変でした。しかし、

反面ホッとしましたと言ってました。

回復は無理ですと言われての6年間は大変だったと察します。自分に残された人生を

有意義に過ごすことにします。と言っていました。

誰もこの世に生を受けたからには遅かれ早かれやがて死を迎えます。生老病死といい

ますが、死は悔いを残します。

人生悔いを残さないように日々の生活を有意義に過ごしたいものですね。

私も70歳を迎え、何時何があってもおかしくない日々です。少しでも悔いのない人生を

送りたいと思います。

般若心経に学ぶ  第七節

第七節 つづき

*輪廻転生の考え方とは?

 輪廻とは、過去世から現在世、そして未来世へと生死を繰返すことですが、それは迷いを

 断ち切って悟りの世界へ到達しない限り、つまり仏陀にならない限り永遠につづくのです。
 
 したがって、十二縁起の第十二に「老死」とあるのは、さらに次の迷いの世界へ転生する

 ことを意味しているのです。三世にわたる輪廻転生の原因と結果を十二の鎖の輪によって

 考えてみると。

 
 老化してやがて死ぬのが人間の定めですが、それは第十一の“生があったからで、すな

 わち生まれからかこそ人間は老い、死んでゆくのです。それではなぜ生まれたのか?第八

 の自らの欲する対象に対する愛着心(愛)と、第九のそれらを自分のものにしようとする

 執着心(取)と、第十の生存したいという欲望(有)との三つが原因となっているからです。

 
 では、未来世に生まれる原因は何か?母親の胎内に初めて一個の生命として宿る第三

 識、やがて母胎の中で心身が発育してゆくという色、そして母胎の中の六つの感覚器官が

 徐々に完備してくる段階の第五の六入、生まれた後に外界の様々な対象にふれてゆく第

 六の触、それらの対象に対して苦楽を識別するようになる第七の受、といった段階を通るか

 らです。

 
 それではなぜ識が生ずるのか?第二の、宿りたいという願いである行があるからであり、

 その原因が、第一の無知すなわち無明という迷いの根本なのです、ということになります。

 したがって、われわれ人間が、迷いの世界に輪廻しなければならない根本原因こそが、真

 実の悟りに対する無知である、ということになります。

 
 そこでこの無明を断ち切らない限り、迷いの世界を超えて悟りの世界へと到達することは

 不可能なのです。ということが仏教における十二縁起という教義が説かれているわけです。

 
 自分が無知であることにすら気づいていないような凡人が、相対的差別を超えた悟りに到

 達することなど、とうてい無理なことなのかもしれません。

般若心経に学ぶ 第七節

第七節 つづき  

十二縁起(因縁)について

*「十二縁起」 十二縁起は無明に始まり老死に終わる。

一)無明     :無知であること。

二)(ぎょう)  :宿りたいという願い。

三)(しき)   :母親の胎内に初めて一個の生命として宿る。

四)名色(みょうしき)  :心身が発育していく。

五)六入(ろくにゅう)  :六つの感覚器官が徐々に完備してくる。

六)(そく)    :生まれた後に外界の様々な対象に触れる。

七)(じゅ)    :対象に対して苦楽を識別するようになる。

八)        :自分の欲する対象への愛着心。

九)(しゅ)    :自分のものにしようとする執着心。

十)(う)      :生存したいという欲望。

十一)(しょう)  :生をうける、生まれる。

十二)老死      :年老いて死んでいく。

以上が十二縁起です。

 

一〜二は、過去に於ける二つの原因です。

三〜七は、現世に於ける五つの結果です。

八〜十は、未来世に対する現在の三つの原因です。

十一〜十二は、未来世の二つの結果です。

これを“三世両重因果と言います。

 

この十二縁起は人間の一生を物語っているのではないかと私は理解しています。

般若心経に学ぶ  第七節

般若心経に学ぶ (第七)

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道  
  
(むむみょう   やくむむみょうじん     ないしむろうし       やくむろうしじん      むくしゅうめつどう          

   無知亦無得 以無所得故
  
 むちやくむとく        いむしょとくこ)

(現代語訳) 始まりも終わりもない、すべてない。

さらに、無知もないし無知の尽きることもない。ということから老も死もなく、老と死が

尽きることもない。ということになり、苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そして、

その方法もない。もともと得るものが無いのだから、智も得もないことになる。

*「無無明 亦無無明尽」 無明とは世の中の真理を知らぬことを意味します。

お経の中に出てくる「無明」という言葉は“明るく無いつまり無知とか愚かなことを意味

している。

人間の持っている煩悩を大きく分類すると、貪欲(むさぼり)、瞋恚(怒り)、愚痴(お

ろかさ)、の三つになります。無明とは無知のことですから、愚痴につながります。

知恵がなく正しい判断を下せないことを無明と言いますが、実は、この愚かさこそが、人

間が迷いに世界に次から次へと生まれ変わる原因であるとする説があります。

これが十二縁起です。

では、何に対して無明≠ネのでしょう?般若の智慧に対して、です。つまり、世の中の

真理を知らず、正しい判断を下せないことを無明と言っているのです。

「無無明」すなわち無明なく、「無無明尽」すなわち無明の尽きることもない。と否定してい

るのです。すべては「空」なのだから、もともと何も存在していないのです

仏教からすると、現在の個の存在は、過去における業の結果であり、さらに、未来に何も

のかとして生まれる原因である。という。

「自業自得」という言葉がありますが、これを分析すると、善因善果、悪業悪果というこ

とになり、良いタネを蒔けばよい結果となってあらわれる。悪いタネを蒔けば悪い結果と

なってあらわれる。ということになります。

現代人がこの自業自得という言葉を用いる場合には、どうも悪い結果になったときのみを

意味しているようですが、

“いつも良い心掛けでいるから、こんなに良いことがあるんだ

“よく言うことを聞いているから、ご褒美が貰えたんだというようことも自業自得なのです。

自業自得は、この世の中における原因と結果だけではないのです。過去世に於ける原因が

結果として現世に表れ、現世で積み重ねている様々な原因が、未来世に於いて結果をもた

らすのです。

自分の過去世における行為の結果が現在に続いているという事ですが、現世で私達が積み

重ねている行為が来世につながってゆくというのです。

般若心経に学ぶ

つづき

この世はすべて空であり無である(般若心経の究極の教え)

六つの感覚器官である六根、それらの対象である六境、それらを受け止めようとする意志

や認識としての六識を合計すると全部で十八となる。それらを仏教では十八界とよんでい

ます。

また仏教には、十界と呼ばれる世界観もあります。これは世界を、地獄・餓鬼・畜生・阿

修羅・人間・天という、六つの輪廻する迷いの世界と、声聞・縁覚・菩薩・仏という、四

っの世界の合計であるとする見方です。十界は、客観的な立場から見た一種の仏教的世

界観と言ってよいでしょう。それに対して十八界は主観的な立場から見た世界観と言える

でしょう。

人間は、自分の眼の届く範囲の中に存在するものは、それが人であろうが物であろうが、

あるいは現象であろうが、こちらに見ようとする意志がありさえすれば見る事ができる。

しかし、それ以外は、いくらこちら側に見ようとする意志があっても見えないのだから、

「有る」とは言えないことになります。

過去において見たことがあるものや、見た人から知識として教えられたものについては、

記憶や知識として残っているはずですから、これらは存在する、と言ってよいでしょう。

見たことも、聴いたことも、匂いを嗅いだことも、味わったことも、触ったこともないものは、

知識として教えられていない限り、本当はあるにも関わらず、主観的には無いに等しい

でしょう。

十界にしても、いかにも客観的な存在のように説かれていますが、この十八界と照らし

合わせてみると、やはり主観的な認識と気が付くでしょう。

しかし、このように分類することこそが人間の煩悩によるものでありますから、それらの

一つ一つも結局は「空」なのです。すべてを「無」という言葉によって否定することによ

って、全世界すら、しょせん永遠に変わらぬ実体などはないと説いているのです。(諸行

無常)

人間は、永遠の中にほんの一瞬だけ「生まれさせて」もらったのだから、もっと、この世

を大事に生きなさいと、教えているのです。

一つ一つの感覚器官を、単に欲望を満足させるためにだけ用いているのでは、誠に申し

訳ない。このことに気づかなければ、このお経を読んだことにはならないのです。と言って

います。

もっとも大切なのは、心の問題です。と説いています。こだわりのない心をもつこと。

こだわり、わだかまりを超越してこそ、“真に自由な“人生の喜びを 見出すことができ

るのです。と教えています。

人は誰もが心の持ち方次第で、幸せにも、不幸にもなるのです。と教えています。

般若心経に学ぶ つづき

意識して無意識に徹すること

人間には、感覚器官である六根と、それぞれの対象である六境と、それらを受け止め

る意志である六識がありますが、最も重要と思われるのが、「意識界」でしょう。

医学の分野で「脳死」が話題になっていますが、脳の機能が停止した時を脳死と言っ

ているようですが、これも脳の、意識界に通じる所があります。もし「意識」が失われれ

ば、たとえ肉体が生き続けたとしても、本当の意味で「生きている」とは言えないでしょう。

では、現に生きている自分たちは「意識」を正常に働かせているか、というと、そうでは

なく、意識があるから煩悩が生じて、偏った考え方に囚われることにもなっています。

要は、見る対象があり、それを見る眼があり、しかも眼識として残しながらも、まったく

煩悩を生じさせないことが大切なのです。それは、「意識」の中にとらえつつも、「無意

識」を貫くことが大切なのです。そうすることが悟りの世界に近づくことになるのです。

「意識して自らの意志で無意識の世界を完成することができたとき」今まで、自分が引き

ずり回されていた価値観は無価値になり、求めていたものが、実は欲望の対象でしかな

かったことに気付くのです。何だか難しくなってきましたが引き続きご覧ください。

 

般若心経に学ぶ

つづきです。

眼がなくとも真実は見える。

眼を持っている人は、眼をもっているからこそ暗闇が不自由なのです。これに対して、初

めから眼が不自由な人は、暗闇でも苦にしない「見える」のです。

私たちはせっかく眼をはじめとする六つの感覚器官をもっていながらも、それらを十分に

正しく用いているでしょうか。

眼がなくても世の中の真実が見える人がいます。眼を持っていながらも、正しく物事を見

ることができない人がいます。どちらが迷いの世界で苦しむことになるのでしょうか。

現実を先入観やこだわりを捨てて、そのままの姿で見ることが大切なようです。

「正見」です。

春と「うつ病」

春になると精神的な病が増加するという記事を見ました。なぜ春になると増えるので

しょう。立春とは春の気がたつ。という意味です。寒さに耐えていた地中の草木の芽が

一斉に芽吹く時期です。人間の中に潜んでいた病の気も同じく出てくると言います。

ではなぜ、病院で治療を受けていても、なかなか回復しないのでしょうか。

今日に記事の中でも、どんな薬でも副作用のない薬はないと言っています。「うつ病」

や他の病気で投薬を長い間受けていますと副作用の薬害を受けることは間違いありま

せん。と書かれています。

「うつ病」の根本的な原因は現代医学では解明されていません。専門医と言われる先生

も試行錯誤しながら、カウンセリングや投薬で試しているのが現状です。

「うつ病」は精神的心の病です。私のところへ相談に来て、カウンセリングするだけでなぜ

簡単に「うつ病」から解放されてしまうのでしょうか?私も不思議に思っています。

それは、根本的な原因を教えてあげることが出来るからではないかと思っています。

あまり簡単に完治してしまうので、不思議に思って親御さんが訪ねてくることが、ままあり

ます。皆さん納得してお帰りになります。摩訶不思議なことがこの世の中にはあるのです。

もし友人知人で「うつ病」で困っている方がおいででしたら、一度私のところへお連れする

か、来訪することを薦めてください。

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を、無料ですることをサイドワークとしています。

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般若心経に学ぶ

*無眼界 乃至無意識界  物があっても見る意思が無ければ・・・・。

 人間が眼を持っていて、眼の前に形ある眼の対象があれば見えるのか、耳が

 あれば人の話を聞くことができるのかというと、そういう訳にはいかない。

 見る意思・聴く意志がなければ見えないし、聴こえないのです。

 このように、見ようとする意志のことを眼識・眼識界と言い、耳識(界)、舌識(界)、

 身識(界)、意識(界)と言って、全体を「六識」と呼びます。

 経典の中では、中間の耳識・鼻識・舌識・身識の四つが「乃至」という言葉で省略

 されています。また最初の眼識界も、識の字が省略されて、「眼界」となっています。

 六根・六境と同じように見ようとする意志、聴こうとする意志、匂いを嗅ぐ意志、・・・

 というのを別のものと受け止めることが問題なのですから「無」という意味で否定し

 て、「空」であることを強調しています。

 「無」の心で見たり、聞いたり、話したりすることが大切なのかもしれません。

 

般若心経に学ぶ

 前回より続き 

*無色声香味触法   ない物を見、ない音を聴く・・・・・・。

 では、眼がありさえすれば見えるのでしょうか? ないものは見えない。すなわち、眼

 で見る対象があるから見えるのであって、そういった対象は、すべて形あるものですか

 ら,それを「色」と言います。「色」とは「形」ととらえてください。

  同じように他の五つの感覚器官についても、耳の対象としては音や声、鼻の対象とし

 ては匂い(香)、舌の対象としては味(味)、皮膚の対象としては接触感(触)、そして心

 の対象としては法、ということになります。これら六つの対象を「六境」と言います。

  心の働きは極めて複雑です。現在の時点で、思い出したり、未来のことを想像したり、

 ここに存在しないはずの物や音や香りや味や接触感を感じることさえ出来ないわけで

 はない。

  このように考えると、必ずしも物が無くても見ることができるし、ない音を聴くこともでき

 るわけですから、見る対象が無ければ見えない、とするのは、迷いの世界に於ける相

 対 的な見方であるといった考え方もできる。そこで「無色声香味触法」となります。

 難しいですね、ムムム・・・。

般若心経に学ぶ

今年も般若心経について書かせていただきます。この教えは本当の意味での人

生指針です。一流のスポーツ選手やゴルファーの方々は、この般若心経の写経

をしている人が多いのです。それは健康成人の集中力は2時間と言われていま

す。写経は集中して約2時間かかりますので、集中力を養うためにしていると言

います。皆さんも是非、今年は写経をしてみては如何でしょうか。

それでは本題に入ります。

 

*是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
   
ぜこくちゅう     むしきむじゅそうぎょうしき      むげんにびぜっしんい        むしきしょうこうみそくほう 

  無限界  乃至無意識界
   
むげんかい     ないしむいしきかい


 (現代語訳)
 したがって、実体が無いということの中には、形あるものはなく、感覚・

 記憶・意志・知識といった精神作用もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心・と

 いった感覚器官もない。さらに、形・音・香・味・接触感・心の対象といっ

 た、それぞれの感覚器官の対象もないし、それらを受け止める、眼識か

 ら意識までの六つの心 の働きもないのです。

 *無色無受想行識

 お経では、この世のありとあらゆるものが「空」なのです。と説いています。そして

 「空」 の中には何もないのです、と展開してゆきます。

 色も受想行識もないと言っているのです。

*無眼耳鼻舌身意 見る、聞く、匂う・・・すべておなじ。

 人間には六つの感覚器官が備わっています。それを「六根」よんでいます。六つと

 は、 眼・耳・鼻・舌・皮膚そして心のことです。これらをお経の中では「眼耳鼻舌身

 意」と言っ ています。

 「眼耳鼻舌身」は誰でもわかります。問題は「意」つまり心の働きです。これには、

 感受性 としての「受」、記憶の働きの「想」、意志を意味する「行」、認識・識別の

 意味を持った「識」 という四つの精神作用や現代風の深層心理のような働きも含

 まれています。

 こういった人間の「心」、精神的な働きすべてをまとめて「意」という言葉で表して

 います。

 人間は常に煩悩によって乱されているので、六つの感覚器官を欲望のために使

 いがちです。だからこれら全てを清らかにしようという気持ちだけは持っていたい、

 という願いが、登 山のときの「六根清浄」という言葉で現代にも残っています。

 六根は別々の存在ではない、同じなのだと言っているのが「無眼耳鼻舌身意」な

 のです。

 般若心経ではすべてが「無」であるという事の教えですから「無」という字が多く出

 てきます。 

あなたは持っていますか?

皆さんは良き人生を送るための指導書をお持ちですか?

いろいろな著書が出ていますが、基本的には皆同じような感じがします。

私のお勧めは「般若心経」です。たった262文字の中に生きるためのノウハウがびっしり

凝縮されています。宗教なんて、と思われる方がおりますが、古来から仏教の教えにより

日本人は教育指導されて現在に至っているのです。荒廃した現在の世の中を変えるにも

必要な教えだと思っています。

皆さんも「般若心経」を一度ひも解いてみませんか。

感謝し努力します。

このページにアクセスいただきました多くの皆様に感謝いたします。

年を追うごとにこのページのアクセス数が上昇しています。本当に有難うございます。

今年は、もっともっと勉強して皆様のお役に立てるよう自己研鑽してゆくつもりです。

これからも宜しくお願いいたします。

新年おめでとう御座います。

2011年を迎え新春のご挨拶を申し上げます。

新年を迎え皆様にはご健勝のことと存じ上げます。心より皆様にとって良い年となることを

祈願いたします。

今年も「心のよりどころ」をよろしくお願いいたします。少しでも皆様のお役に立てるよう充実

した記事を記載したいと心しております。

 

般若心経に学ぶ

*「不増」「不減}(ふぞう・ふげん)
 
  お経の中で、「不増」と言っているのは、物事は一部の現象や姿だけから判断すべ

  きではない、と言っています。

  ちょうど“金は天下のまわりものという言葉に象徴されているように、発行された

  紙幣や貨幣が一定しているならば、個人として持っている金銭の額には変化があっ

  たとしても、全体から見れば不増不減であるようなものです。

《総訳》

 “美しいものを尊び、醜いものを侮辱する

 “強いものに憧れ、弱いものは軽くみる

 “富を尊び、貧を下に見る

 “大なるものを崇め、小なるものは捨てる 

  人間は、なんと“相対的なるものに左右されて生きているのでしょうか?

  なぜ自分なりの基準、自分だけの“色めがねだけでもって、よのなかを見、

  かつ暮らしているのでしょうか? 

  そういうものが「苦」の原因になるとも知らずに・・・・・。

   この世の中に“絶対など存在しないのです。“絶対と信じている人間はいても

 “絶対はない、すべて“まぼろしなのです。このことを説いているのがこの章の言

  葉です。

  ・世の中のあらゆるものは“空なのだから、・・・・・是諸法空相

  ・それは本来、生じたものでも滅したものでもない・・・不生不滅

  ・汚れたものでも浄らかなものでもない・・・・・・・・不垢不浄

  ・増えたものでも減ったものでもない・・・・・・・・・不増不減

   この真実に、人間はなかなか目を向けようとしない。とらわれの心を持っているから

   です。とらわれの心は“そこに何ものか永遠なる存在があると思い込んでいるから

  です。

   執着という名の不幸を取り除くことが大切です。

   こういう落とし穴に陥らぬよう、もっと真実に目を向け。自分だけの思い込みなど捨

  てなさいと説いているのです。

 「般若心経で学ぶ」はこれが今年最後です。来年またよろしくお願いいたします。

 皆さんどうぞ良い年をお迎えください。

今年も終わりです。

いよいよ今年も残り僅かとなってしまいました。皆さんにとって今年2010年はいかが

でしたでしょうか?世の中がすっかり変わってしまったような気がします。

世界中で、日本でもさまざまな問題や災害が起こり波乱万丈の2010年のような気が

します。今年よくなかった人、良かった人、人それぞれでしょうが、今年の生き方が翌年

に現れるので、来年もこのことを忘れずに邁進していただきたいと思います。

般若心経に学ぶ

*「不垢」(ふく)  きれいなもの

  きれいとか汚い、といった印象は、相対的なものであります。時代や国、風俗、習慣

  のも左右されます。何が絶対的に“垢=iきたない)であり不垢=iきれい)であ

  るか、というような基準はないといってよいでしょう。

  私たちが迷いの眼をもって垢∞不垢≠ニ差別しているあらゆるものが、あくまで

  も相対的な判断でしかないと分かります。お経の「不垢」は、世の中のあらゆるもの

  は「空」なのだから、汚れたものなどないと言っているのです。


*「不浄」 (ふじょう) きたないもの

     「永遠の美は幻に過ぎない」

 私たちが“美しい“浄らかであると考えているものもまた、相対的な判断にしか過

  ぎないと言っています。これが「不浄」です。

 仏教の修行の方法の中に“不浄観というものがあります。私たちが生きることのみに

  執着したり、欲望を持つことから離れるために、いかに人間が“汚いもの“けがれて

  いるものであるかを認識する、というものです。
 
  どんなに若くて美しい女性でも、やがて老婆になれば醜くも汚らしくもなります。
 
 “美しいということは人生の一時期での現象です。“永遠に変わらない、というもの
 
  ではない。現在でも、その腸の中には糞尿が一杯詰まっているはずです。このような真
 
  実を見極めることも、人生にとっては大切です。

  きれいなものの裏側には必ず汚いものがある。永遠に浄らかなるものなど、ただの一つ
 
  もないのです。そういうことに一瞬でも早く気付くことが大切です。
 
 浄らかなものでもない、すべて「空」なのだから、と説いているのです。

 早くく気付いて迷いから抜け出して安らかな人生を送りたいものですね。

般若心経に学ぶ

般若心経に学ぶ

*不滅(ふめつ)

死んでも無になるわけではない。霊魂の不滅を説いている宗教の場合は、たとえ肉体が

消滅しても、霊魂だけは永遠に残る.とされています。

しかし、無我を主張している仏教では、初めから実体としての霊魂の存在は無いとして

いるので、もともと無いものが、死んだからと言ってなくなるとは考えない。そういう

意味で「不滅」滅することが無いと説いているのです。

「不滅」とは本来、この迷いの世界におけるあらゆる存在や現象に、永遠に変わらず継

続する実体が無い以上“生ずる≠ニいうことも実体が無い、ということを言おうとして

いるだけなのです。相対的な消滅を超えたところにこそ、仏教の悟りが存在すると言っ

ているのです。         お釈迦様の教えは意味深いですね。  つづく。
 

般若心経に学ぶ

続き

*不生(ふしょう)

 お経の中での「不生」という意味は、この迷いの中のあらゆる存在・現象のいずれも

が実体のないものである以上、“生まれる≠ニいうことも実体がなく、単に一時的な仮

の姿の表れにしか過ぎない。ということを言っているといいます。

現在の一人ひとりの人間は、過去における自分自身の「業(ごう)」、すなわち行為の

結果としてこの世に生まれたといいます。これが仏教における輪廻転生の思想である

といいます。ということは、少なくとも「私」という者が、無から生まれたわけではないこ

とになりますね。

したがって、「私」という現在の存在は、過去から未来にわたって変化しながら存在し

続ける「空」なるものの、一時的な仮の姿ということになります。

それならば、現在の人間として生まれた、という現象も、変化の姿の一つに過ぎない

のだから、もともと「生まれた」などという実体はないことになります。

ひとりの人癌が生まれる、という現象には、今までなかった生命の誕生、といった印

象を与えます。科学の目から見ても、精子と卵子にそれぞれ存在する父と母の遺伝

子を受け継いで一個の生命となるのですから、何もないところから突然生じる分けで

はないのです。業といった考え方にしても、過去における先祖代々の人間の遺伝子

であると受け止めれば、別に荒唐無稽な考えとは言えないでしょう。

「業」に中には、外面に表れた身体や口による行為だけではなく、心の中で考えたり

思ったりしたことも積み重ねられているから、その中身は極めて複雑です。

もしこの業が輪廻の主体であるとするなら、過去世より現在世へ、さらに未来世へと

永遠に転生を繰り返すことになって、いかにも業そのものが実体であるかのように思

われますが、しかし業そのものは一瞬一瞬その瞬間における身・口・意による行為を

付け加えてゆくので、同じ状態で継続することはない。したがって、変化してゆく業に

は、業としての実体もないといえます。

子供を産む≠ニいった言葉の使い方がありますが、いかにも自分達の意志によっ

て生んでいるかのように思っていますが、よくよく考えてみると、縁すなわち様々な条

件が備わっていなければ絶対に子供は生まれてこないし、ましてや、願い通りの子

供が生まれるとは限りません。それは、こどもは与えられた≠烽フであっても、決し

てつくった≠烽フではない、つまり実体がないのですから。

難しい話になってしまいましたが輪廻転生によって現在の自分が存在するという。
                                                                           つづく

ミミの子育て

ミミ二世も生後、早2ヶ月を迎えました。名前もやっと付きました。「モモちゃん」です。

毎日元気に飛び回り、母親とじゃれ合っています。オシッコもちゃんと自分専用のトイレで

するようになりました。成長は一日ともいえません。私の食事時は腕に乗っていたり、肩に

乗っていたりして大変です。現在夜は又私の布団に寝るようになってしまいました。

本当に毎日癒されています。

2世 2ヶ月目  ミミ二世 18日目
二ヶ月です。                  母親と初めてのツーショット。

般若心経に学ぶ

 般若心経を読んでの続きです。

*舎利子 是諸法空想 不生不滅 不垢不浄 不増不減
 (しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)

(舎利子、この諸々の法は空想なり、不生にして不減、不垢にして不浄、不増にして不滅

なり) 

(現訳)舎利子よ、この世のあらゆる存在や現象には実体がないのだ(空想)。だから、

生じたものでも減ったものでもない、汚れたものでも綺麗なものでもない、増えたもので

も減ったものでもないのです。

*是諸法空相(ぜ しょほうくうそう)

姿形ある肉体と、その中の心とが常に変化しているのが、人間をはじめとするすべての存

在です。人間は、生まれた瞬間から、体と心を持った一個の存在として現われ、死ぬまで

存在し続けるのです。しかも、一瞬一秒でも、前の状態と同じ状態で生き続けることは出

来ないのです(無常)。変化しなければ成長も進歩もないし、生まれることも老化も病気も

ないでしょう。変化することによって生命が誕生し、やがて老と死を迎える。その死を迎

えるまでは、変化しながらも身心を保ってゆく、ということになります。

これこそが、この世のあらゆる存在や現象(諸法)には実体がない。という姿(空相)な

のです。

何だか難しくなってきてしまいましたが、何となく分かるような気がしませんか? つづく。

今日は「いい夫婦の日」です。

「いい夫婦」って見ていると微笑ましくて、羨ましい感じがしますね。自分達夫婦は果たして

「いい夫婦」かな?と考えますと、どうやらそうでもないですね。「いい夫婦」の基準は何だろう

と考えてしまいました。自分なりに考えますと、互いに喧嘩をしたりしますが後に残さないこと

が一番良いのではないかと思います。喧嘩や口論はその場限りにしておきましょう。

明日は勤労感謝の日です。たまの休日夫婦でお出かけになっては如何でしょう。

般若心経から学ぶ

「受想行識 亦復如是」:心の四つの働き(五蘊)もまたかくのごとし。

心もいつか変わってゆく。「絶対に変わらぬ愛」を誓って、信じあった二人の愛も、やがて

色あせるときが訪れる。他の異性に横恋慕、倦怠期を迎える、離婚を決意する、配偶者の

死を願う・・・・。愛がその始まりの頃と同じ強さでけいぞくすることなど、きわめて稀

なことです。

愛に実体はないのです。どんなに愛し合っていた二人であっても、片方が死んでしまえば、

やがて悲しみや苦しみは徐々に薄れていってしまう。そのうち、どうしてあの時にあんな

に悲しんだのか、と自分が不思議に思えてくる。これが現実の人生なのです。

このように人間の心にもまた、実体が無いのです。常に心というものも変化し続けている

のです。

このように人間の心もまた、実体がないのです。「受想行識 亦復如是」つまり心の四つの

働きも、色と同じように空なのですと、言っているのです。

「色不異空 空不異色」:「色」は「空」と同じであり、「空」は「色」と同じなのです。

「空」の思想を強調する四句。

以上のように、この世には何一つとして永遠なるものはない。すべては本質的存在ではな

い。・・・・――――これが「空」なのです。永遠という時間の中に人間を置いてみると

人間は何年生きられるだろうか?せいぜい百年でしょう。永遠を100としたら「百年」

は、ほぼゼロに等しい。千年の古木も永遠に比べたらゼロに等しい。

すべては永遠の存在ではなく、また、そうだからこそ、今、一時的な仮の姿を与えられて

「有る」ように見えるのです。ではどうしたらよいのか?

  一時的に「現在の人間」として生を与えられた、「わたくし」という人間が、この様に恵ま

れた機会を十分に生かすことなく、単に瞬間的な享楽のみを追いかけて生きてはならない。

実体のない私達の一生を、いかに有意義に用いて、未来の変化に対する備えをしておくべ

きか、を教えようとしているのです。

と言うことは、私もいずれは死んで消え去る身、現在は仮の姿なのですね。

毎日癒されています

愛猫二世が始めての親子でのツーショットです。生後18日目です。

嫌なことがあっても、この二世を見ると本当に心和み癒されます。

      ミミ二世 18日目 可愛いでしょう。

毎晩、私と一緒に寝ています。この顔を見ると寝不足も忘れます。 

般若心経より学ぶ  色即是空 空即是色

 「空即是色 色即是空」

皆さん一度はこの言葉を聞いたり見たりしたことがあると思います。それでは紹介します。

*舎利子 色不異空 空不異色 色即是空  空即是色  受想行識  亦復如是
  しゃりし    しきふいくう    くうふいしき    しきそくぜくう    くうそくぜしき    じゅそうぎょうしき   やくぶにょぜ

「舎利子」 : 釈迦の十大弟子の一人。智慧と徳に優れた。

「色即是空」:形として存在しているすべてのもの(色)には永遠に継続するような実体

         などはない(空)、ということを意味している。

「空即是色」:「空即是色」を逆に考えてみると、永遠に継続すべき実体がない(空)から

         こそ、瞬間的には一定の形あるもの(色)として存在する、と言うことに

         なります。
 
仏教の基本的な教えの中の一つに、無常観と呼ばれるものがあります。この世の中にある

すべての存在と現象は、一瞬たりとも同じ状態にとどまることはなく、常に変化し続けるという

ことです。「諸行無常」

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・・[平家物語]

「ゆく河のながれはたえずして、しかももとの水にあらず、よどみにうかぶうたかたは

かつきえかつむすびて、ひさしくとどまりたるためしなし。よのなかなるひととすみかと、

またかくのごとし・・・」 「方丈記」

無常観を感じさせる有名な句です。「無常」という言葉から、すぐに死とか消滅とかいった

ことを連想されますが、無常とは、否定的・消極的なものだけを意味するものではなく、

成長・発展・進歩といった肯定的・積極的な面も含んだ思想なのです。

現実の世の中を、あるがままに冷静に見つめた上で、ではどのような目的を持って生きて

いったらよいのか、を深く考えるための出発点なのです。

このように、あらゆる存在や現象には実体がない、ということを見極め時に、私達は、そ

んな実体がないものに執着することが、いかに空しいものであるかに気がつく。そのこと

を教えようとするのが、このお経の目的といってよいでしょう。

ミミの子育て

今日で子供は14日目です。一晩に数回オッパイを飲みます。そのたびに起こされます。

オシッコや排便は、ミミが舌でお腹を刺激してさせてる様子です。一切汚しません。

ここ数日、授乳が終わると私の体に寄り添ってきます。うっかり動けません。ふらふら

今朝、5時ごろ目を覚ますと、子供が私の枕に顔を乗せて私のあごの所に寄り添って寝て

いました。そしてミミも並んで顔を出して寝ています。一人と二匹で川の字に並んでいました。

マミーが部屋に来て覗いて笑っていました。わーい(嬉しい顔)

何だか毎日ミミ親子に振り回されているようです。子猫は日ごとに可愛くなっていくようです。

本当に動物は癒しになりますね。猫

癒し・寝不足

飼い猫のミミが子供を生みました。それも一匹です、今日で13日目です。八日目にはじめて

見ました。それも夜になって寝る時間に、私の寝床へ子供を咥えて入ってきたのです。

困りました。まだ手のひらに乗ってしまうほどの大きさです。可愛いです。

寝返りを打って潰してしまっては大変なので一晩中眠れませんでした。ミミはそのまま子供と

一緒に昼も夜も居座っています。今日で6日目です。子猫は3日前ほどから目が開きました。

本当に可愛いですよ。孫は毎日学校から帰れとまっすぐ見に来ます。早く抱いてみたいと言

って楽しみにしています。本当に癒しになります。

動物の子供に対する愛情は人間以上のように思えます。早く親子で出てこないかと楽しみに

しています。ミミはトラ模様で子供も同じトラです。寝姿が可愛いです。

「無教会」 内村鑑三

軽井沢の「石の教会」を見学する機会がありました。内村鑑三の記念館として建てられている

ようです。

内村鑑三という名前は、はるか数十年前に中学校の教科書で見たような気がします。

69歳で心臓病により亡くなられたそうです。明治・大正期のキリスト教者で「無教会」

は内村鑑三に依って初めて語られた言葉です。と書かれています。その一部を紹介します。

      教会のすべてを「無」にするという意味ではありません。

                  教会とは

          制度が{無」くても、たとえ信仰が「無」くても

                 祈りたい人が

         自由に集うことの出来る場所なのではないか。

                 あたかも家庭が

           不完全ながら暖かな休息所であるように

                   教会もまた

                愛ある場所なのだから

                 と師は説きました。

                                 と、書かれています。

                 軽井沢石の教会
                     石の教会です。

 

 場所や形にとらわれずに、祈りたいときには場所にはこだわらずに、その場所が教会と

 思い、そこで祈ればいいのだ、自然に中に生かされているのだから。と言っているようです。

          

 

般若心経から学ぶ -10- つづき 

 前回からの続き

一休禅師(一休さん)の挿話に、正月に「めでたいめでたい」と浮かれている人々に向

かって「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」と警告し

たのです。

新年を迎えることは、新しい年に向かっての希望に満ちた第一日であると同時に、死

出の旅路への一歩でもあるのです。

愛と怨憎から遠く離れて、欲望から別離し、生と死を差別しない境地に到達するために

は、この世の諸現象全てが「空」なるものであることに気が付く必要がある。そのことを

「照見」したのが観音菩薩であったということです。

悟れる世界に到達した者から見れば、しょせん人間世界(此岸)のあらゆる苦しみは、

人間がこの世に執着する迷いから来ているものとなります。

その迷いの世界(此岸)から悟りの世界(彼岸)へとすくいだそう、「度」(渡そう)とし、

それができるものこそが、菩薩なのです。

*一切の苦厄は身・口・意からおこる。

私達人間を構成している身心の中で、心というのは厄介なものです。だからこそ仏教の

教義においては、人間を構成する要素の中で、色(しき)を除いた四つ、受想行識は心

の働きと言うことになっています。

仏教では、人間の行為を三種類に分けて、心口意(しんくい)の三業、と言っています。

身体でなす行為と口で言う行為は、外部に現れるから他人でも良く分かります。意業と

呼ばれる心の働きだけは、本人以外の者にはなかなか判らないものです。

本音と建前がまったく違うなどと言われますが。確かに普段、私達が口に出して言って

いることと、心の中で思っていることの間には開きがあることがあります。だからこそ

古人は、「天知る 地知る おのが知る」などと言って、いつでも自分以外の何者かが、

自分の心の中まで見通しているのだから、決して分からないなどと思ってはいけない、と

警告しようとしたのでしょう。

いずれにしても、この「心」という存在は、人間にとって、又生き方にとって、極めて重要

な問題と言えるでしょう。

金・物などに「執着心」が過大になると様々な問題を起こす原因となります。仏法でもこの

世に執着する迷いから苦しみが始まると言っています。

人間は、上辺の言動ではなく心が最も大切なのです、と言っています。

般若心経から学ぶ  つづき

前回の四苦八苦の続きです。 

残りの「四苦」は:愛別離苦・怨憎会苦・苦不得苦・五蘊盛苦があります。 

「愛別離苦」とは:愛するものと別れたり離れたりする苦しみ。(あいべつりく)

「怨憎会苦」とは:怨み・憎む人と出会う苦しみ。      (おんぞうえく)

「苦不得苦」とは:求めるものが得られない苦しみ。     (くふとっく)
         
人間の欲望には際限がないから、永遠にこの苦しみから解放されることはない。

「五蘊盛苦」とは:色・受・想・行・識の五蘊による苦しみ。 (ごうんじょうく)

以上の七つの苦をまとめて、身心の五つの要素によって構成されている人間の存在そのもの

が苦しみなのであるとする五蘊盛苦が最後の出されてくるのです。

人間として母親の胎内から生まれてきた以上、「生」そのものを否定することは不可能です。

そうかといって自らの手で生命を断ち切ることが苦からの解放になる、というものではな

い。要は、現実に目をそむけずに、四苦八苦をあるがままに認めることなのです。これら

の現実の姿を直視したうえで、さらに、これらの苦しみを超越した解放の世界である悟り

をめざせ、と言っているのです。

人生は苦しみに満ちたものであり、四苦八苦の苦しみ、心と身体があるための苦しみ、

「人生は四苦八苦なのだ」と見据えることから、この世をおおらかに生きてゆく智慧が

見つかる、と言っているのです。

*愛と怨憎から離れられれば

自分の愛する対象でなければ、誰が何人が別れてゆこうと、それは自分にとって苦しみ

とはならない。自分にとっての愛の対象でない限り平然としていられる。

愛別離苦の苦しみの原因は、自分の側の愛にあるからです。同じことは、怨憎会苦や苦

不得苦にも同じです。

自分が怨んだり憎んだりするから、それらの人達と会ったり話したり、一緒に暮らした

りするのが苦しいのです。恨みの憎しみも感じていない相手なら、何も苦しむことはな

いのです。欲しい欲しいと求めるから、手に入らないことが苦しみのなるのであって、

欲しいと思わなければ、得られない苦しみはおきないのです。

生と死についても、生まれることは目出度いことであり、楽しいことですが、死ぬこと

は苦しいことであり悲しいことである。と思い込んでいるからこそ、老も病も苦しみと

なり、はては、それらの原因である生さえも苦しい、となる。

「老」は確かに死へ近づく過程でありますが、同時に、人間が成長する過程でもあるの

です。   つづく

般若心経から学ぶ 

 「般若心経を読んで」 -10-のつづき

「一切苦厄」 (いっさいくやく)とは

仏教の開祖、釈迦によると、この世(此岸)に住む私達人間の一生には、苦しみが満ちて

おり、それらを分類すると四苦八苦になる。これらを総称したのが文中の「一切苦厄」であ

ります。

この苦は人間の力ではどうすることも出来ない根源的な「苦」なのです。

*「四苦八苦」とは:八苦の前半は四苦のことですから、合計八苦あるだけで、十二苦ある

  わけではない。
 
「四苦」とは:生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)誰もが老化し病気になり死んでゆくのは

        苦しい。

「生」苦とは:生まれたことの苦しみ。

「老」苦とは:年老いる苦しみ。

「病」苦とは:病気になる苦しみ。

「死」苦とは:死ぬことの苦しみ。

死んで行くのは苦しい。ではなぜ老・病・死があるのか?それは生まれたからである。

つまり、“生”こそが、その後の苦しみの出発点ということになります。   (つづく)

般若心経を読んで ー10−

「照見五蘊皆空 度一切苦厄」(しょうけん ごうん かいくう ど いっさいくうやく)

読み下し文:五蘊皆空を照見して一切の苦厄を度す。

「五蘊」:二千五百年前の仏教の世界においては、人間を構成するものは「身体」と「心」

の二つであり、その心の働きをさらに四つに分類して、計五種類としていた。

「色」が“形あるもの”ということで肉体の総称であり、「受想行識」(じゅそうぎょう

しき)というのが心の四つの働きです。

五蘊とは

肉体:色(しき) 形あるものすべて

精神(心):受(じゅ) 感覚

       想(そう) 記憶

       行(ぎょう) 意思

       識(しき) 知識

これらをまとめて{五蘊}と読んでいます。仏教では、このような五つの構成要素からな

る人間の存在そのものが苦であると考えるのです。

いかにも独立した一個の存在のように思える個々の人間も、結局はこの五蘊の構成要素が、

さまざまな条件の下に一時的に合成された姿であるから「空」であるという。これがこの

経典の主張なのです。

「空」とは:“有るような無いような”ものこそが「空」。現代風には“実体無きこと”

といえるのではないでしょうか。

「照見」とは:私達は二つの眼を持っている。その眼は本当に物事をしっかり見ているか

というと、はなはだ怪しい。物理的には確かに眼によってさまざまな物や現象を見ていま

すが、それは単に表面的に見ているに過ぎず、多くの場合、それらの本当の姿に気が付い

ていないのではないでしょうか。美形で背が高く頭も良い、と見定めて結婚したはずの女

性が、妻としてはまったく不向きの人間だった、と後に気が付く。容姿や学歴、家柄とい

ったものに眼を奪われて、内面的なものを見抜くことが出来なかったからでしょう。

同じことは夫の場合にも言えます。

だからこそ、あれほど好いて好かれて一緒になったはずの夫婦が、現代のように、何秒か

に一組の割合で離婚することになるのです。人間というものは、きわめて不完全なもので

す。このように外見に惑わされるのも自然なことなのかもしれません。

しかし、すべての人々を救済しようとする観音菩薩は、そんな表面的な現象だけを見ては

いない。「この世の真実」を見たのです。

お経の中の「照見」というのは、“この世の真実”つまり五蘊はすべてか空なのだ、と見定

めたという意味なのです。照見とは単に現象的、表面的な面を見るのではなく、物事の本

質を見極めることなのです。         つづく

般若心経を読んで -9-

*般若心経を読んで  

「行深般若波羅蜜多」(ぎょうしんはんにゃはらみた)パーラミターの音写。

迷いの世界(此岸)から悟りの世界(彼岸)へ到達するための実践行。波羅蜜とも呼ばれ

全部で六種類あります。これを「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼んでいます。

六波羅蜜とは

布施波羅蜜:他人に対して広く施しをする実践。 (ふせはらみつ)

持戒波羅蜜:日常生活の諸規則を守る実践。   (じかいはらみつ)

忍辱波羅蜜:じっと我慢する実践。       (にんにくはらみつ)

精進波羅蜜:あらゆる努力を惜しまない実践。  (しょうじんはらみつ)

禅定波羅蜜:現在していることに心を集中させる実践。(ぜんじょうはらみつ)

般若波羅蜜:智慧を理解し実践し、上記五つの実践を支える。(はんにゃはらみつ)

彼岸こそ「菩提(ぼだい)」すなわち悟りに到達するための実践行をなす期間として設定さ

れた、仏教徒のための修業期間であったとされています。

彼岸の入り・彼岸の中日・彼岸明けということが言われていますが、もともとは、中日を

はさんだ六日間の間に六波羅蜜多の一つを実践するすると言うのが、彼岸の起源だったと

いわれています。

六波羅蜜を読んでみますと、現代における我々人間が忘れていることではないかと感じます。

仏教の世界のことではないように、ブッタの教えはより良い人生を送ることへの教えですね。

何か一つでも六波羅蜜を実践してみませんか?

情は何所へ

連日の非情な報道を見ると人間・親子の情はどうなってしまったのだろうと思いませんか。

同居の親の死を弔うどころか、そのまま白骨になるまで放置したり、袋に入れて押入れに

放置したり、親が子供を子供が親を殺したりと人間としての情や親子の関係はどうなって

しまったのでしょうか?あなたはどう思いますか?ふらふら

周囲の人々や関係者の方の対応は?あまりにも自分主義のように思われます。現代の風潮

でもある、自分のことだけで精一杯、他人の事なんかかまっていられないというような、薄情

な風潮。これらは何時からこうなったのでしょうか。ちっ(怒った顔)

気持ちも心もまったく余裕がなくなって、自分主義の世の中になってしまったせいでしょうね。

犬や猫だって自分の子供は命がけで守ります。人間はこれ以下になってしまったのでしょうか。

悲しいですね。もうやだ〜(悲しい顔)

自分が現在この世に存在していることは、両親があり御先祖があったからです。感謝の気持

を忘れないでください。

 

 

観音の慈悲について

*般若心経を読んで  -8-

観音の慈悲について

観音さまは、「正しい智慧に目覚めた者」である仏陀の二大特徴である智慧と慈悲のうち

「慈悲」を象徴化したものです。

「慈悲」とは、相手に喜びや楽しみを与え、同時に相手から悲しみや苦しみを取り除くことを

意味している。

しかもその慈悲の対象は、決して個人の人間ではなく、生きるものすべてに対してであると

いうことです。

観音の慈悲は、生き物を決して差別しない。

我々人間はどうでしょうか、「子供や孫がかわいい」「恋人を抱きしめたい」とか、「オレの・・・」

すべて自分を出発点としている発想です。だから、相手に裏切られたりすると、途端に愛が憎

しみへと変わってしまうのです。

衆生がどんな姿、形をしていようが、富める者のだろうが貧しい者だろうが、そんなことには頓

着しない。この世で悲しんだり、苦しんだりしている衆生を救済するのが目的なのです。

実はこの「衆生を救済する」という目的を持って説かれているのが「般若心経」なのです。

[観音さま 「般若心経」を読んで -7-

今日も酷暑の中、老体に鞭打って頑張っています。

皆さんも一度は観音様をお参りし、お願いしたことがあるでしょう。

観音菩薩は、さまざまな姿があります。今日は観音さまについて書きます。

*観音さま

「観自在菩薩」観音さまのことです。他に、観世音とも言われます。

観音は苦しみ、悩み、迷う者の祈りを一身に受け、すべての衆生を 救ってくれるのです。

観音さまは顔立ちが優しいことにお気づきでしょう。男でもなく女 でもなく「性」を超越して

いるのです。観音菩薩には、「自分だけ が悟りをめざすのではなく、同時に他の人々をも

一緒に悟りへと導 いてゆく」と言う特徴があります。これを「自利利他円満」と言います。

観音さまには、いろいろな姿があります。一般に良く知られているのは、十一面観音・千手

観音・馬頭観音などです。何故このようにいくつもの姿に変えるのか?観音の慈悲は、相手

の姿や数に応じ て、 自由自在に救いの手を差し伸べる、ということを象徴している から な

のです。

観音さまは慈悲の象徴です。「三人寄れば文殊の智慧」と言う言葉 がありますが、文殊とは

文殊菩薩のことです。釈迦三尊という像が ありますが、釈迦の両脇に普賢菩薩・文殊菩薩と

いう二人の菩薩が います。

菩薩とは、悟りをめざしている者すべての総称です。

観音さまの御利益というものは、病気を治してくれたり、商売繁盛 させてくれたり、頭が良くな

る、といった、いわゆる現世利益が本当の目的ではないのです。

一応現世利益(苦しみ・悩み・迷い除いて)を与えた後、この迷いの世界を離れて悟りの世界

を目指させようというのが、観音菩薩の本当の目的といわれています。

困ったことが起こったら観音さまにお願いしてみては如何でしょう。

蓮如上人の「白骨の御文章」

皆さんも葬儀のときなどに聞き覚えがあると思いますが。蓮如上人の言葉で、人間の儚さ

を説いた言葉です。明日はわが身か、身につまされるような言葉です。

蓮如上人(浄土真宗)     「白骨の御文章」
      (蓮如上人の撰述した御文の五帖目、第16通「白骨」)

白骨の御文章

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おほよそはかなきも

のはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、幻(まぼろし)のごとくなる一期(いちご)なり。

されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことを聞かず。一生過ぎ

やすし。今に至りて誰(たれ)か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、

今日とも知らず、明日(あす)とも知らず。遅れ先だつ人は本(もと)の雫(しずく)末(すえ)の

露よりも繁(しげ)しといへり。されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には

白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風来(きた)りぬれば、すなはち二つのまなこ

たちまちに閉ぢ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひを

失ひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)集まりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐(かい)

あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙(けぶり)と

なしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば、人間

のはかなきことは老少不定(ろうしょうふじょう)のさかひなれば、誰(たれ)の人も早く後生(ご

しょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深く頼みまゐらせて、念仏申すべき

ものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

意訳


人間のはかない人生をよくよく考えると、この世の中でおよそはかないものは、あっというま

に迎える人生の最期である。いまだかって万年も生きたという話を聞かず、一生は早く過ぎ

るものである。現在でも百年を生きることは難しい。

自分が先になるか、人が先になるか。今日とも明日とも知れない命で、遅れる人早く亡くなる

人は、木の葉の露、雫の数よりも多い。そうであるならば、朝元気であった者が、夕方には死

んで骨になるかもしれない。   無常の風が吹いたら、たちまちのうちにまぶたは閉じ、呼吸も

停止して、顔色がむなしく変って赤みを失う。そうなれば家族・親戚が集まって歎き悲しむが、

蘇生効果はない。さてすべき事をしなければというわけで、遺体を野外に送り、夜中に火葬を

して煙となれば、わずかに白骨のみが残るだけである。これはあわれというよりもおろかなこ

とである。ではどうしたらよいかというと、人間のはかない命は老若の順とは限らないので、

誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべき

である。恐れ多いことよ。恐れ多いことよ。

忘れてならないこと

すべて命のあるものは、この「宇宙の真理」によって生かされているのです。

生きているのではなく、生かされていることを忘れないでください。

皆さん、お盆はどうお過ごしでしたか?年に一度のお盆、二度の彼岸会、亡くなられた御先

祖、 の方々を思っていただき、その霊を敬っていただきたいのです。

現在の自分は御両親が在り、その又ご先祖様が在ってこの世に存在するわけです。この組

合 せが違っていたら現在の自分はこの世に存在しないわけです。

人生を幸せに生きるためには、御両親・ご先祖様を大切にし感謝の気持ちを忘れてはいけ

ま せん。

世間ではよく「仏様にお願いしてはいけない」などと言いますが、それは間違いです。

何か悩んだり問題がおきたときは仏前・墓前で「何か良い智慧を与えてください」と言って、

線香やお花をたむけてお願いしてみてください。何か見つかることが多々ありますよ。

常に御両親、御先祖様に対して感謝の気持ちをお忘れなく・・・・・。

誰もが10代さかのぼると1024人の御先祖様が居るのです。

「般若心経」を読んで -6-

「仏説般若波羅蜜多心経」はお釈迦様が説いた「経」なのです。それが「般若波羅多」です。

つまり、お互い傷つけあい、迷い、苦しみ、悩むことの尽きない、私達が住むこの世(此岸)

から、完全な悟りの世界、つまりあらゆる煩悩の火が消え去った静寂な世界(彼岸)へ行く

ために必要な実践行のことが書かれています。

釈迦の教えは、人間としていかに生きるべきかの教えなのです。

「般若心経」を読んで -5-

本文の意味について 

「仏説摩可般若波羅蜜多心経」 (ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう)

仏説=仏(釈迦)の説いた教え。

摩可=大きい・非常に・まことに意味深い、と言う意味。梵語のマーハーの音写。

般若=仏陀の会得した正しい智慧。

波羅蜜多=到彼岸(彼岸に至れる)。 梵語のパーラミターの音写。パーラム(彼岸)

        イター(到達する)の意味。

      彼岸とは「悟りの世界」のことで、そこに到達した者こそがブッタとなることが出来

      るという意味。

      「悟りの世界」とは“死すること生きるがごとき境地”を示す。思いわずらいいも消

      え、苦しみのない静かな世界。パーラミターというのは、悟りの世界に到達するた

      めにしなければならない実践工(修行)のことです。この実践行は全部で六種類

      あり、それらを六波羅蜜(ろっぱらみつ)、六波羅蜜多(ろっぱらみった)という。

心経=心(梵語のフリダヤを翻訳したもの)  経(梵語スートラで、仏教的には、永遠に貫く

    教えの綱要、と言った意味。 最も肝要にしてつらぬく教えが「般若心経」であるという

    事になります。

『般若心経」を読んで -4-

「般若心経」は般若経の真髄と言われています。

玄奘三蔵が天竺から持ち帰った仏教経典群は、数ある仏教経典の中では「般若部」と言わ

れる経典群が主でした。普通は“お経”というと、仏教聖典総てを含めたものと理解しがち

ですが、もともと仏教聖典には「経・律・論」と三種類あったそうです。

(きょう)=仏教の開祖である釈迦の教え。

(りつ) =僧が守るべき社会生活上の掟。

(ろん) =釈迦の教えに対する解釈や注釈。

以上の三つで、これをまとめて「三蔵経」とか「大蔵経」「一切経」とよんで、その数は五千部

を超えると言われるほど多いそうです。

仏教は、紀元前五世紀ごろ、釈迦を開祖として出来た宗教ですが、これらの経典について

は、すべてのものが一度に出来たものではなく、数百年もかかって徐々に現在の形にまと

められてきたといいます。紀元前後ごろになり、仏教の中にも大きく二つの流れが出てきて、

それまでの仏教の立場は、どちらかと言うと出家したお坊さん中心のものであった、教義に

も消極的・虚無的な解釈をしていたのです。これらを小乗仏教と名づけて批判するという形

で大乗仏教がおこったのです。

その中で最初の大乗経典として出来たのが「般若経」で、そして、それを初めて中国語に訳

したのが玄奘三蔵だったというわけです。「般若経」は、それ自体、膨大な経典群でしたが、

それらの精髄を取り出し、まとめたのが「般若心経」なのだそうです。

経典は、古代インドの雅語であるサンスクリット語(梵語ともよばれる)と、一種俗語のパー

リ語でした。そしてパーリ語の聖典が、インドから南方にある国々に伝えられて上座仏教

(小乗仏教)の聖典となったのです。一方、梵語の聖典は大乗仏教、北方仏教の聖典とされ

、これらは、主にインドより北の方へ、中国語やチベット語をはじめ、さまざまな国の言葉に

翻訳されて、広められたと言います。

こうして、梵語から中国語に翻訳されて日本に伝えられたのが「般若心経」なのです。

 

 

「般若心経」を読んで -3-

「般若心経」は私達に何を語りかけようとしているのでしょうか。「般若心経」世界は広大・深遠

と いう言葉が無意味なほど広く、深い世界です。

たった二六二文字のお経は、私達をさまざまな悩み・迷いから救ってくれるのです。

「なにものにもとらわれず、あるがままの姿で生きて行く素晴らしさ」を会得できるのです。

今を生きる私達にとって、絶対的事実である「死}と言う問題にも、一つの回答を与えてくれる

事 でしょう。あなたも「般若心経」を紐解いてみませんか。

「般若心経」を読んで -2-

毎日を苦しみ・悩み・迷いながら、心のふれあいもままならず、個性を埋没させて生きている。

そんな現代人のために、“おおらかに生きるための知恵と方法論”が見つけられる教本がこの

般若心経なのです。

この世に人間として生を受け、成長するにしたがい、我々の一人ひとりが、何かを成し遂げよう

と念願しながらも、知らぬ間に老いてゆくのが人生の姿なのです。

人間としてせっかく生まれさせてもらったのですから、せめてこの世に生きている間に、自分が

生きていることの本当の意味を考えて見ましょう。

『般若心経』は現代に生きる途を教えてくれる。

お経というと葬儀や回忌供養のときにだけ、と思っている人が大半ですが。実は、お経は現世

に於ける生きる指針を示している教えなのです。たった262文字の中には、計り知れない程の

深い人生指針が凝縮されているのです。

三蔵法師がインドから持ち帰り中国語に訳したものです。三蔵法師は「玄奘三蔵」と呼ばれた

実在の人物。三蔵法師と言う名前を聞くと、孫悟空たちと一緒に、天竺(インド)までお経を受

取りに行った中国のお坊さん。と皆さんが思い、知っていると思います。

「西遊記」はこの大旅行を記録したものです。

「般若心経」を読んで

 花山 勝友著 「絵で読む般若心経」 鞄本実業出版社版より

何回となく般若心経を読んでいますが、毎回新しい発見があります。今回から般若心経を

読んだ感想を書きたいと思います。般若心経の本は数冊読んでいますが、誰にでも分かり

やすく記載されているこの著を元に御紹介します。

正式には「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と言います。「仏」とはお釈迦様のことです。その

お釈迦様が「説」いた「経」なのです。それが「般若波羅蜜多」心経です。

お互い傷つけあい、迷い、苦しみ、悩むことの尽きない私達の住むこの世(此岸(しがん

から、完全な悟りの世界、すなわち、あらゆる煩悩の火が消え去った静寂な世界(彼岸)へ

行くために必要な実践行のことが書かれている経なのです。「摩訶」とは、人知も及ばない

意味深い教えだと強調した言葉です。

誰も、心の中に傷を持っていたり、悩みを持っているものです、それはこの世に生きている

限りは、決してなくならない。ですから、この世に生きている間に「静寂な安らぎの境地」に

到達すればよいのです。その知恵と実践論が書かれているのが「般若心経」なのです。

何故か寂しい気分

30年来の友人が、定年して第二の職場に付、5年間活動してきましたが、この六月一杯で

退職となります。わざわざ東京から挨拶に来ていただきましたが、何故か寂しい気分です。

本人は、まだまだ元気でやる気十分なのですが。第三の職場の話もあるようですが、今まで

一生懸命働いてきたのですから、この辺でゆっくり奥様と老後を過ごすことが出来れば良い

と思いますが、現在の日本の社会保障の状況では、そうも出来ないのが現状です。

寂しい国ですね。私は自営ですので定年はありませんが、やはり先々が心配です。経済面

や体調面、何時どうなってもおかしくない年齢です。毎日を無事に過ごせることに感謝しなが

ら、前向きに生きて行くように努力して活きたいと思います。

人生、悔いなき生き方などは出来ないと思いますが、出来るだけ少なくして行こうと思います。

悩み解決法

お訪ねしてくる相談者の殆どが、悩みぬいた挙句、相談に来られます。

しかし、自分の口から悩みを発露して、それを聞いてあげることによって、すぐに表情に

変化が表れます。もちろん安堵の表情です。そして、いろいろアドバイスをさせて頂きま

すと納得して、また表情が変わります。お帰りになるときは別人のようです。

悩みは一人で考え込むと、益々大きくなります。聞いてくれる人に話しすると、悩みは相当

に軽くなります。一人で抱え込まないでください。簡単なことで解決できることが多いです。

不安な気持ちはわかりますが、どうぞ話をしてください。きっと解決できると思います。

幸せと不幸は

幸せと不幸は表裏一体、ではないでしょうか。今日、幸せを感じても、明日はわからないの

です。人生は幸せ〜不幸〜幸せ〜不幸の繰り返しで、振り返ってみて幸せの数が多ければ

幸せだったんだナ。と思えるのではないでしょうか。

幸せも、不幸も、諸行無常です。人間の寿命も、人生も諸行無常です。

少しでも幸せを感じる生き方をしたいものです。

ダイエットになったかな

暑くむしむしする日中に、菜園へ出掛けました。雨の後なので茄子苗を植えるためにマルチ

ング(土にビニールをかぶせる)をしてきました。暑いの何の汗だくでタオルで拭き間に合わな

い状況でした。パンツまで汗ビッショリ、これで幾らか腹もへこんでくれそうかな、などと思いな

がら作業をしてきました。下着姿で運転し帰ってきました、シャワーを浴び、久しぶりに冷たい

稲庭うどんを食べました。これではダイエットにはならないでしょうか。ウエスト94cmを少しで

も減らしたいこの頃です。ダイエットって難しいですね。   ふらふら  ま、いいか。

時には大胆に

今日の一言(外山武史さんの言葉より)

ときには大胆に

確かさばかり求めてぐずぐずしている人には大きなことは決してできない。

イギリスの女流作家、 ジョージ・エリオットの言葉。

耳が痛い言葉。というのも僕は、親から「石橋を叩いても渡らない」と言われ

るほど、 慎重な子どもだったからです。

多少のリスクを背負わなければ、前には進めない。

一歩目を踏み出せずに、悔しい思いをするのは嫌。だから、ときには大胆に

行動した いと思います。慎重すぎる方は、一緒にぜひ。        

(外山武史)

なかなか、その一歩が踏み出せないのですよね。頑張ってみましょう。

もっと褒め言葉を

今日の一言を見つけましたので紹介します。先人は良い言葉を残してくれました。

ほめ言葉をケチるな

ほめ言葉をもらえば、それだけで二ヵ月間、幸せに生きられる

『トム・ソーヤの冒険』でお馴染みの作家、マーク・トウェインの言葉。

学生時代、ほめられることが多かった人も、社会人になると人からほめられる機会が少なく

なる。その分、ほめられたときは嬉しく感じるものだ。ほめるだけで、人を幸せにできるのなら、

もったいぶらない方がいい。

それに、他人をほめれば、いつか自分にも返ってくる。そんな気しません?(外山武史)

人は誰でも、ほめられると嬉しいし元気が出ます。やる気にもなりますね。大人になっても人を

褒めることは大事なことではないでしょうか。

本当の「もてなしの心」

 禅語の教え

*喫茶去(きっさこ)   本物のもてなしの心

数ある禅語の中で、一番読んでホッとできるのが、この「喫茶去」ではないでしょうか。

と書かれてています。意味は「お茶を一服いかがですか」「お茶でも召上がれ」という言葉

です。「喫茶去」と言って接する心には、貧富や、男女、自他の分別はないのです。

古来、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けにして、みずから無心に茶を点てて、貧富貴

賎の客を選ばずに施す心を養ってきたようです。

私達は、好きな人や偉い人、見返りを期待できそうな人には丁寧にもてなし、嫌いな人や

興味のない人、印象が悪い人にはいい加減な対応をしてしまいがちです。「喫茶去」の心

をもって、誰に対しても分け隔てなく、真心から接したいものです。と書かれています。

明日からでも「喫茶去」の心境で人には接しましょう。自分がこの心境で人に接すれば、

また、自分も相手から「喫茶去」の待遇を受けるのです。

                 喫茶店    レストラン   バー  ビール  わーい(嬉しい顔)

地獄はあの世のものではない

地獄・極楽の話は御存知でしょう。地獄はあの世のものではないのです。

現世で悩み・苦しんでいることは地獄の苦しみと同じなのです。なぜ人間は悩み苦しむので

しょうか? それは前世からの償いです。人間は誰も前世があります。前世の罪と現世で犯し

た罪が重なると「宿業の余罪重障にして・・・・」と罪が重なり苦しみ悩が増すのです。

人間世界に生まれた我々はまだ救われる道があります。犬や野犬や虫などに生まれ変わっ

た者はどうにもなりません。人間と生まれた我々に課せられた課題は「償い」です。

人間は前世・過去・現在に犯した罪の償いをしなくてはなりません。償いが完全に実行される

ことにより、再び転生する事はなくなります。大変難しいことです。

殆どの人間は永遠に輪廻転生を繰り返し来世に再び生まれてくるのです。これが人間です。

生きている内に少しでも「自利利他」の心境で徳を積み生きることが大切です。

妄想

*妄想
なぜ自分の思い通りにならないのか。他人ばかりいい思いをするのはなぜか。
私たちはそんな考えにとらわれがち。でも怒り、嫉妬、不安、憎しみなど心に
生まれる負の感情は、自分の心が勝手に作る「妄想」だと気づけば、人生が
スッと楽になるはず。

「看々臘月尽」(みよみよ ろうげつ つく)

*看々臘月尽(みよみよ ろうげつ つく) 人生は短い

臘月(ろうげつ)は、十二月の別名。看々(みよみよ)は、良く見なさいの意味。

見時通り解釈すれば「もう十二月も終わってしまいますよ。月日の流れの早いことをよく

見なさい」ということになります。

「臘月」は、十二月を示すと同時に私達の人生も暗示しています。十二月があっという間

に終わるのと同じく、人生もあっという間に終わってしまいますよ、ぼんやり生きず、命 の

尽きる時をしっかり見なさい、と論しています。

どんな風に生きても、一生は一生。だらだら過ごしても、目標を達成するために努力して

も、時間は同じ速さで流れていきます。人生の終わりに後悔しないためにも、やり残しは

作らない。そのためには、やるべき時が今だと思ったら、後回しにしない事です。「明日や

れば」「また今度」と言っているうちは、何時までも実行できません。

慌ただしい年の瀬、この言葉を思い出して「人生の臘月」について考えることは、怠けが

ちな自分を戒める、良い機会になります。

私たちはつい「次にするか」とか「今日はいいや」等と何かと後回しにすることが多々あ

りますが、これはやり残しを作る原因ですね。何事も後回しにしないで気が付いたときに

即実行することですね。「光陰惜しむべし、時人を待たず」という言葉がありますよ。

人生にピンチヒッターはいない

*他是不有吾 (たはこれわれにあらず) 人生にピンチヒッターはいない

曹洞宗の開祖、道元禅師の修業時代の話で、禅の道を求めて宋代の中国に留学した若き

道元は、夏の炎天下で、食事を担当する年老いた典座が、茸を干しているのを見ました。

老典座にはつらそうな仕事なので、道元は思わず「そんなきつい仕事は、使用人に頼めば

良いではありませんか」と言いました。老典座の答えは「他は是れ吾にあらず」、他人に任せ

てのでは自分の修行にならないということです。道元が気遣って「なぜ、こんな暑い中で苦労

されるのですか?」と尋ねると、老典座は「さらに何れの時をかを待たん(今やらずに、いつや

るのか)」と答えました。

面倒なこと、気乗りしないことも、今この時にすべきことは後回しにしない。この日、この時が

つねに「一大事」だから、決して疎かかにしてはならないことを、この言葉は示しています。

これは、私たちの日常にもあてはまります。注目を集めやすい仕事、目立たない仕事、楽な

仕事やきつい仕事など、様々なものがありますが、どんなことでも求められる役割を、一心に

勤めあげ、全力を尽くすことが大切です。

一人ひとりの人生には、ピンチヒッターもピンチランナーもいません。それぞれが、一人で歩ま

なければなりません。やる気がなかなかでないとき、「他は是れ吾にあらず」と、そっと唱える

と、元気を分けてもらえる気がします。

人生は一人で歩まなければならない厳しい現実です。と言う事ですね。

 

最近思うこと

最近思うことは、何故か人とお会いすると相手方からいろいろな話を持ちかけられます。

先日も仕事で現場に出向いてスタッフと打合せをして終わると、施主様の奥様が話し掛けてき

ました。世間話の相手をしたのですが急に「家の息子が独身なので、誰か良いお嫁さんを紹介

してくれませんか」と言われてビックリしました。かなり真剣にお嫁さんを探しているようでした。

心がけておきましょうと言って帰ってきました。(笑)息子さんは、29歳。脳外科の放射線技師

だ そうです。名乗りを上げたい方は御一報ください。

いろいろな出来事に遭遇しますが、何時も相手を思う気持でいると、このようなことになるよう

な 気がします。

連日相談者来訪

このHP・「みんなが幸せになるブログ」をご覧になり、来訪やメールでの相談がお蔭様で増え

感謝しています。19日と21日と来訪いただきました。県内日立市、栃木県真岡市からと遠方

よりお尋ね頂きありがとう御座いました。何らかのお役に立てたのではないかと自負しています。

悩みや問題を抱えておられる方は何なりと御一報ください。話すことにより心も気持も晴れる

ものですよ。一人で抱えていては解決することは出来ません。

皆さんのお役に立てることを常に心がけています。 お待ちしています。

ところで、皆さん春の彼岸です。御先祖様の墓参りはお済ですか。

まだ行ってない方は是非彼岸中に墓参りをしましょう。両親があり、御先祖様がいらっしゃる

ので現在の自分が存在しているのです。感謝の気持ちを持って墓参してください。

 

目標に向かって

 禅語の教え

*大道無門(だいどう むもん) 目標に向かって前進あるのみ

「大道」とは真理にいたるための道。その大道には門が無い、つまり入り口がないという

意味です。大道は仏道の道に即して生きることで、そのための決まった道があるわけでは

ありません。でも無門といい、千差路有りといいながら、安易に無門を通過できるもので

はありません。入り口のない無門はそのまま難問の関所であり、ただでは通れない無門関

です。命を惜しんで修行し、仏意にかなう手形を得てはじめて門を通過したとき、ついに

何ものにも縛られず、自由自在な境遇に至れるのだといいます。これは修行者に示した言

葉ですが、私たちの人生にも当てはまります。

私たちが目標に向かって進むとき、その道は一本だけとは限りません。人生の道は、一つ

ではなく千差路あり、どの道を行くにしても、しっかり目標を定め、確かな足取りで実践

してゆきたいものです。と書かれています。

どの道から入ればいいか悩んで進めなくなってしまうより、実際に行動し、努力するほう

がより現実的です。先ずは前進のみです。

先に数字ありきが問題

某車のディーラーの所長さんと話す機会がありました。日頃の仕事に大変お疲れの様子でし

た。上からは売り上げ増強を押し付けられ、下からは仕事の多さに苦情を言われて中間管理

職は大変な苦労をしているようです。企業は業績を伸ばすために躍起となって部下に対しては

唯数字ありきで目先の数字に翻弄されている社員は見ていて可哀想なようです。

数字のみで判断していると、おろそかになるのが人間としての基本ではないでしょうか。業績

を 伸ばす事にだけ気をとられていると今回のトヨタのリコール問題のような結果になること請

け合 いです。話を聞いていると地獄を見ているようです。餓鬼地獄でしょうね、何も無くて人の

吐い た つばや痰、排泄物までも食べて生きようとしている状態。他人はどうでも自分だけ良

ければ 何 でもあり。今はこんな時代なのでしょうかね、嘆かわしい時代です。

数字ありきのみに走っていると必ず問題が起こります。人間関係・コミニケーション不足など

現代の問題です。笛吹けど誰も踊らず、になってしまうような気がします。もう一度離れた所か

ら冷静に見つめなおしたほうが良いのではないでしょうか。 企業は人なり、お金や業績は後

からついて来るもではないですか。

職人冥利

仕事は誤魔化さず、手抜きせず、相手の気持になって施工する。これを守ってきた甲斐があり

ます。昨日12年前に塗替え施工させて頂いたお客様より再塗装の相談がありました。

私は忘れていましたが再度当社に相談依頼をしていただき心より感謝の気持で一杯です。

早速お伺いして話をさせて頂き、図面をお借りしてきました。

数軒の訪販業者が何回もこられて困っていたようです。訪販業者の名詞を見せていただきまし

たが、どちらの業者も知らない業者でした。

12年前の工事を思い出して頂き連絡をして下さいました事に本当に塗装屋冥利・職人冥利を

しみじみ噛み締めました。

自分に問いかける

 ●癒しの禅語

*生死事大(しょうじ じだい) 自身に問いかける「生」  六祖壇経

私たちは皆、さまざまな希望を持って生きています。何を目標にするかは人それぞれです

が、人生で最も大切なことは結局「どう生きていくべきか」を問い続けることです。

「生とは何か」「死とは何か」「人はいかに生きるべきか」を考えることです。

この世では、生まれたものは必ず死に、出会ったものはいつか別れ、持ったものは失い、

作ったものはこわれます。時は矢のように過ぎ去っていきます。すべてが「無常」です。

はたしてこの世に、無常でないものなどあるでしょうか。と書かれています。

禅宗の僧堂では毎日、朝夕の時を告げたり、法要を知らせるために板木(ばんぎ)という

法具を打ち鳴らします。皆さんも見たことがおありでしょう。その板木の表面には、この

言葉「生死事大」が墨書きされています。今度見かけたらよく見てみてください。

あなたは、与えられた一生をどう生きてゆきますか?もう一度考えてみませんか。

相手の気持を察して

友人と温泉に行きながらの話しで、職場の人間関係、地区内の人間関係・友人との関係と

話が 進みました。結局のところ、お互いに長くお付き合いを続けるには、相手の気持を察

することが 一番大切ではないかという結論に達しました。お互い心を開いて話が出来ること

は一番です。

互いを気遣い相対してゆくことが長くお付き合いが出来るコツ。

自分が、私がと「我」を張っていては何事も上手く行きません。素直な心で聞く耳を持ち話し

合え る状況が大切です。現代の日本人は何か忘れているような気がしますが、あなたは

如何に思いますか。

 

[ 感謝するのみ

長引く不景気の中生き残りに掛る心労は大変なものです。我々業界も同じく仕事は師走と

言うの に激減しています。そんな中で、今月は知人からの紹介が3件あり本当に感謝です。

長く御無沙汰していた知人からの紹介には頭が下がります。3件とも来年に施工することに

なり ました。今年は、たまたま忙しく(雨のせいですが)気忙しい思いをしています。

これも「徳」のなせる業かと思っています。「人は人の為に生きることが大切なことだ」という

教えを思い出します。「困った時はお互い様」の気持を忘れずこれからも生きてゆこうと思いす。

 

自信を持ってやりとげよう

*徳不孤必有隣 (とくは こならず かならずりんあり)
                              自信を持ってやりとげよう  論語

この言葉は、徳のある人は孤立することはない、と言う意味です。

一生懸命学んだことや、苦労して身につけた技能が世間で評価されず、軽んじられるのは

つらいものです。自分は間違っていないと思っても、評価されないことに焦るあまり、

それまでの主義主張や信念を曲げて妥協してしまうこともあります。

でも、本当に正しいと信じるならば、妥協せずに努力を続けることが必要です。意思堅固

に道を求め続けていれば、おのずから理解者は現れ、支持する人も出来ます。あなたは

一人ではなく、支えてくれる人が必ずいます。

ただ自信を持って自分の信念のもとに生きてゆきましょう。

心に響く禅語 その10 心身ともにさっぱりと

禅語 その10

「身心脱落」 (しんしんだつらく) 身心ともにさっぱりと  正法眼蔵(道元)

「脱落」は落ちこぼれとか、離脱する意味ではなく、一切のしがらみから脱し、さっぱり

した境地のことです。

道元の著「正法眼蔵」に、如浄禅師が「禅の修行には、焼香も礼拝も念仏も懺悔も読経も

不用。ただひたすら坐禅をすることが身心の脱落に通じる」と説いたと言います。

ひたすら坐禅し、見も心も一切の執着を離れた、自由で清々しい境地が「身心脱落」なの

です。欲しいもの方に入らない(求不得苦)、自分は他人より損をしていると言った悩み

は、他と比べる心と執着から生まれるものです。身心脱落とは、「わたしの身心」「他人の

身心」という考え方を含め、一切の執着から離れることを意味します。と説いています。

ここでは「執着心」について説いています。自分にだけ執着しているといろいろな問題が

起こってきます。自分中心に物事を考えずに大きな心で捉えることが大切でしょう。

「心のよりどころ」として

多くの皆さんに電話やメールやFAXでのお問い合わせを戴き感謝しています。

つたない私のアドバイスが少しでもお役に立てていることに、この上ない喜びを感じています。

皆さんの「心のよりどころ」として御相談に対応できますように、これからも勉強してまいりたい

と心に決めています。

どうぞ、今年の悩みは来年に持ち越さないで御遠慮なく御一報ください。待っています。

もっと政治に関心を持ちましょう

政治に関してはあまり記載したくはありませんが、現在行われている予算案の見直しを見たり

聞いたりしていますと、各省庁・公益法人の、あまりの庶民感覚とのズレの大きさに怒り心頭で

す。国民を騙すような血税の使い方にあなたは、どうお思いになりますか。 ちっ(怒った顔)

我々国民はもっと政治に関心を持とうではありませんか。今までの政治のあり方に大いに疑問

を持って見てゆこうではありませんか。現政権よもっと厳しく仕分けして欲しいと思います。

身近な県や市町村の税の使い方も似たり寄ったりではないかと思っています。

心に響く禅語 その9 慎みという美徳

禅語 その9

「和光同塵」 わこう どうじん  慎みという美徳  老子

個性や自己主張をアピールして、自分を立派にみせることが現代流の生き方で、それが

主流のようになっています。現代は少しでも他人よりすぐれ、自分の長所を磨き抜きん出

ることが評価されているようです。

あからさまな自己主張の時代に失われゆくのが、謹みや謙虚さ、奥ゆかしさなどです。

派手な光を放つことはないけど、いぶし銀のような深みのある人、ピリッと鋭い意見を

さりげなく言えるような人は少なくなっています。

こんな時代だからこそ、見直したい言葉が「和光同塵」です。老子は「その光を和らげて

その塵に同ず」と言いました。「和光」とは自分が勉学、修行によって得た道徳性や知性、

才智の輝きを和らげ、顕(あらわ)にしないこと。「同塵」とは塵やゴミに汚れた現実世界

に同化すること。聖人であっても、悟りを開いた禅師であっても、その学徳や才智を表面

に出さず、俗塵の中にまみれて衆生済度をするという意味です。と記されています。

禅者のようにいかないまでも、私たちにも出来ることはあります。自分の行いを自慢せず、

謙虚に奥ゆかしく、困った人や助けを必要としている人たちに、ささやかでも役に立つこ

とをする。そんなところから始めてみましょう。

何か身につまされるような言葉「和光同塵」いい言葉ですね、私もそんなところから始め

てみようと思います。

心に響く禅語 その8 本来無一物

禅語 その8

*本来無一物 (ほんらい むいちもつ)    「何もない」ということ。

読んで字のごとく、人間は本来執着する一物もない、何も無い、一切空であり、絶対無で

あることを意味します。分別・相対的な観念を全くはさまない世界、一切のものから自由

自在になった心境を言います。

この時代にこの心境になるには大変なことです。こんな心境に少しでも近づくには、何を

すれば良いのか?「法」に従って「無」になることでしょう。悟りの心境でしょうね。

  心に響く禅語 その7 苦しみを乗り越える

禅語 その7  苦しみを乗り越える

*寒時寒殺闍黎 (かんじは しゃりをかんさつし) 苦しみを受けとめる覚悟

難しい言葉ですが、闍黎(しゃり)とは僧の尊称だそうです。

「寒時寒殺闍黎 熱時熱殺闍黎」 (かんじは しゃりをかんさつし ねつじは しゃりをねつさつす)

という禅語です。

この「寒暑」は、寒さや暑さだけのことではなく、心の中の苦悩や煩悩も私達にとっての

「寒暑」です。

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、その悩みを避けたり、一時逃れをするのは、寒いと

きに「寒い」と文句をいい、暑いときには「暑い」と愚痴るのと同じこと。苦しいときこ

そ、その悩みを避けるのではなく、ありのままに受けとめる。つらい事柄に「なりきる」

ことによって、人は煩悩苦悩から解放されるという教えです。

辛い事をしっかり受けとめる勇気を持つことが、苦しみを乗り越えるためには必要です。

大変難しいことですが、いろいろと悩み多いこの時世において、これを乗り切るためには

自分の現状をしっかり見て受けとめることが大切なのでしょう。八正道にある「正見」

(しょうけん)の意味と同じではと私は思います。

坐禅について

*坐禅(ざぜん) 自分の心を見つめて静かに座る。

禅語について記載していますが、禅と言えば坐禅を思い浮かべますが、今回は坐禅につ

いて書きました。

坐禅の「坐」の字は土の上に人が向き合い、対話する形から成り立っています。対話する

のは、自分ともう一人の別な自分、つまり心の中の自分、魂の自分です。

本来の自分と向き合って自問自答することこそが尊いのです。

自分を知ろうとスルホド、イヤな思いをすることもあるかも知れません。でも、そうして

人は強くなれるし、他人にも優しくなれるのです。と教えています。

又、座敷の「座」の字は「广」(まだれ)の中に坐と書きます。この、まだれは家・建物を

意味します。よって「座敷」は家の中で敷物の上で向かい合って座ると言うことです。

皆さん、坐禅の経験はありますか。

たまには、一人静かに坐禅して自分を見つめることも大切かもしれません。

心に響く禅語 その6 心にわだかまりがない

 *心無礙(しんむけいげ)

私達がよく耳にする「般若心経」の一節である。「心無礙」とは、心のわだかまりがな

いこと。私達は心配事があれば心配に心を捉われてしまい、悲しいことがあれば、悲しみ

に心を奪われてしまうようである。そしていつも心のどこかにひっかかりを作って、くよ

くよ考え込んでいる。その心のさまたげを「ケイ礙」という言葉で表現している。「ケイ」

とは魚を捉える網のこと、「礙」とはさまたげを意味し、私達の心が網にひっかかってもつ

れた状態、私達は心配や悲しみに心を奪われなければいいのだが、実際問題として不可能

である。生きている人間である以上悲しみ苦しみはつきまとう。何か心配事があるとその

ことが頭から離れない。夜もおちおち眠れない。ひどい場合はノイローゼになったりする。

だから心の「こだわり」「わだかまり」を捨てるように般若心経は教えている。悲しみは悲

しみとして受け止める。苦しみは苦しみとして受け止める。それが、「心無ケイ礙」の説く

ところである。悲しみ、苦しみはだれでも受ける。受けた心のダメージをどのように処理

していくのかが、問題なのである。自己の宗教心をしっかりと確立している人は、きっと

立ち直りは速いと思う。私達は物事に「こだわりつつ」「こだわらない」心を学ばなければ

ならない。心に「わだかまり」「こだわり」を持たないで生きることは大変難しいことです。

しかし、「わだかまりや」「こだわり」を持っているとすべてに疑心暗鬼となってしまう。

「先入観」や「わだかまり」を出来るだけ持たないように生きることが大切でしょう

うつ病について

*鬱病(うつびょう)の話

ある先生の鬱病についての講演を聴いてきました。最近、若い人から中高年にまで多くの

鬱病の患者が増えているといいます。現に公務員の中にも増加傾向の話を聞いています。

急に登庁しなくなり電話の連絡もつかなく困っているとの話です。

講演を聴いていると鬱には、いろいろな原因が重なり発生すると言います。人間は誰でも

欝病の要素は満ち合わせているといいます。それが何らかの原因で出てきてしまうと言い

ます。結局は、鬱病の根本的な原因は現代医学においても、はっきりと分からないのが

現状のようです。

病院では専門の先生が、直接患者と直面しカウンセリングを行い、薬を処方しているのが

現状のようです。結局、長期にわたり治療するほかないようです。

私のところへも鬱病の相談は多いです。病院でのカウンセリングの内容を聞きますと、先

ず「よく寝むれますか」「食事はどうですか」「気分はどうですか」などと日常の状況を聞

かれるそうです。何も楽しい話は無いとのことです。

カウンセリングは、相手の心や気持を和らげることではないかと思いますが。

では、家では話も笑いもせず何もしないで部屋に閉じこもり、音楽やテレビを聞いたり見

たりしてゴロゴロしている鬱の方が、私のところへ来られますと、ちゃんと話をしますし、

笑顔も出ます。なぜなのか分かりません。訪ねてこられたときと、帰るときの顔付きがまっ

たく違ってお帰りになります。このような方は先ず安心です。必ず近いうちに病から開放さ

れます。私自身もビックリしています。

今まで何人もの方が鬱病の相談に見えましたが、全員立ち治っています。私は私なりに、

師より教えて頂いた話をするだけですが、この話は、鬱病になる原因を簡単に話すこと

なのです。現代の医学者や科学者は絶対信用しないような話ですが、師のところへは病院

の先生や有名な病院の看護士さんたちが定期的に通って話を聞きに来ていました。

私のところに来て、急に快方に向かって治ってしまった患者さんに対して、最近は先生が疑

問を持ち「何かしてきましたか」と聞くそうです。私は聞かれても「何もしていません」

と答えるように言っていますので患者さんはその通り答えているようです。

このことは、他の病気の方の場合も同じで必ず急に快方に向かってゆくと聞かれるそうで

す。「何かあるんではないか?」と先生方も思っているのではないでしょうか。実際に何度

も先生から問われた人もおります。

人間は宇宙の中の自然の生き物ですから、宇宙の真理の中に生かされているのです。

その真理を知り、その教えに従って行動すれば良いわけで、何も難しいことはありません。

その教えに中に、さまざまな問題の原因が記されているので、それを教えてあげることに

よって問題は解決するのです。

まだまだ未熟な自分ですが、師の教えを伝えながら少しでも皆さんのために貢献できるよ

うこれからも努力するつもりです。    いつでもお話を伺いますのでご遠慮なくどうぞ。

心に響く禅語 その5 「吾唯足知」

 禅語 その5

 *知足(たるをしる) 欲しがることをやめてみる 〔遺教経〕

「足るを知る」京都・竜安寺の「吾唯足知(われただたるをしる)」と書かれたつくばい

が有名でしょう。

私達は欲望を無限にふくらましてはならない。これで充分、つまり「ごちそうさま」と言える心

のゆとりを持たねばならない。「吾唯知足」は、釈尊が説かれた教えである。「足ることを知

る人は、心は穏やかであり、足ることを知らない人は」心はいつも乱れている」と言われる。

心の平安を求めるのであれば、「吾唯知足」を是非とも理解しなければならない。具体的に

は、「ごちそうさま」「もう充分」「もう結構です」の心であろう。食事などでお腹がふくらんだら

言えるが、欲しかったものが目の前に山積みになったとき、はたして可能かなとも思う。

「吾唯知足」は現代の日本人が理解出来にくい言葉である。理解出来にくいがゆえに、耳を

傾けなければならない。

「貧しい人」とは何も持ってない人ではなく、多くを持ちながら、まだまだ欲しい、と満足でき

ない人のことです。

足るを知り強欲にならないことが大切です。問題や悩みの根本は「欲」です。誰もが欲の

ない人はいませんが、自分の器に合った欲で満足するべきでしょう。それには先ず、自分

をよく見つめることです。相談者の中にも足るを知らない人が結構いらっしゃいます。

「知足」いい言葉ですね。

千利休(せんのりきゅう)は、茶道の心得として、「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほど

にて足る事也」と述べました。必要な分を必要なだけ用意し、茶を点ててまず仏に供え、

人に差しあげ、施し、最後に自分もいただく「利他」の精神がそのまま自分の幸せである

という。「自利利他」の心が大切です。

人生を生きることも、商売をするにしても、役人でも、国家でも、すべての人間が我欲を

張らずに「自利利他」の精神で行っていけば争いや、問題も起こさずにすむのでしょう。

心に響く禅の言葉 その4 「夢」

禅語 その4

*夢   夢ははかないものか?  (金剛経)

仏教では「いろいは歌」の「色は匂えど散りぬるを」(美しく色香漂う花も、やがて散って

しまう」に表されるように、世の中全ての現象は、実体のない仮の姿で、夢幻のように何

ひとつとして同じ状態で続くものはないと言う諸行無常の思想があります。

その実体のない仮の姿、仮の世を、私たちは真実だと思い、永遠に続くものと思って執着

していますが、それははかない夢幻、泡影のようなものだと論するのが、次の言葉です。

一切有為法     如夢幻泡影     如露亦如雷       応作如是観
(いっさいのういのほう)  (むげんほうようのごとし)  (つゆのごとしまたかみなりのごとし)  (またかくのごとしかんをなすべし)

この世の一切の事象は、夢幻のようで、泡のようで、影のようだ。露のようで雷のようで

もある。迷いの多い生活から目覚めるためにも、この世のすべてを夢と知れ。

禅語としては、沢庵和尚(たくわんおしょう)の辞世の「夢」が有名です。沢庵は「夢」の字

を大書し、横に「是(ぜ)もまた夢、弥勒(みろく)もまた夢、観音もまた夢、仏云く(いわく)、正に

(かく)のごとき観を作(な)すべし」と書いた後、亡くなったといわれます。

つまり沢庵は、一切の事柄は夢であり、すべてに執着から脱却した状態にあると言った

のです。沢庵はこの世の一切のものが仮の姿であることを悟った境地で「夢」と書きました。

悟りの世界に行ったとき、人はもう儚い夢を見ることもなく、現象の仮の姿に惑わされた

り、酔いしれたりすることもないのでしょう。そんな安らかな心境を、「夢」の一字に表し

たのかもしれません。と記されています。

沢庵和尚のような安らかな心境になるにはやはり、悟りの世界は死後の世界なのですね。

私たちは日頃から、この仮の状態の中で執着し迷い悩んでいるのですね。仮の世界なのに

ものごとに執着するから問題が起こるのでしょう。すべての事柄は諸行無常であることを、

あらためて認識しました。

心に響く禅の言葉 その3 「放下著」

禅語 その3

*放下著(ほうげじゃく) 「投げ捨てて」自由になる。(六祖壇経)

無心になることは、難しいことです。修行者であっても「無心」の境地にはなかなか到達

出来ないようです。無心になろう、無心になろうと思えば思うほど、心のモヤモヤが広が

るようです。修行者であっても、少し道理がわかってくると、悟りの境地に迷うと言いま

す。ましてや、私たち凡人が日々の悩みを捨て去るのは、とても難しいことです。でも、

捨て去ろうと頑張るほど、悩みや辛さに絡みとられることもあります。

壁にぶつかったときこそ、あえて「放下著(投げ捨てる)」の気持で向き合っていきましょう。

と、記されています。難しいことですね。 (-_-;)

心に響く禅言 その2 「却下照顧」

禅語 その2

*脚下照顧(きゃっかしょうこ) わが身、わが心を見つめる。

文字どおり「自分の足下を良く見つめなさい」ということです。

足下を見ることは、わが身、わが心を見つめることでもあります。足は人間の体を支える

根幹です。足下がぐらつくと、安心して立つことができません。身体が安定しないばかり

でなく、心まで不安定になってしまいます。

足下がぐらつかないよう、土台を固めるには、常にわが身の行いを振り返ることです。

いま思っていることを振り返り、毎日使っている言葉を顧みる。無意識のうちに他人を傷

つけてしまう言葉の過ち、わだかまる恨みや怒りなど、自分の中にあるマイナス部分を認

め、反省する気持を持つことです。禅寺の玄関にはよく「脚下照顧」と書いた看板があり

ます。これは「上がる前によく自分の足下を見なさい」という意味で、脱いだ履物をきち

んとそろえましたか?という注意書きです。しかしこの言葉は、たんに履物の脱ぎ方を注

意しているわけではありません。「形は心の表れ」と言いますが、心が乱れていると、何

ごともきれいに整えることが難しくなるものです。玄関を見ればその家の状態がわかると

言うほど、靴の脱ぎ方ひとつにも、心のあり方が見えると言われます。

心が余裕を失いそうなときこそ、立ち止まって足下を見つめたいものです。

ドキッとしますが、早く玄関に行ってみて下さい。皆さんいまから「脚下照顧」を実践し

てみては如何でしょうか。心が安定し余裕が出てくること請け合いです。

心に響く禅言 「日々是好日」

やはり人間の生き方の教えは仏語(禅語)にあるようです。身近な言葉で普段気付かないで

使ったり聞いたりする言葉の多くは仏語(禅語)の言葉が多いようです。これから禅語の紹介

をしてゆきたいと思います。

 

禅語その1

*日々是好日(にちにちこれこうじつ)  雲門禅師

私たちがよく目にしたり聞いたりする言葉です。これも禅の言葉です。

文字どおりに解釈すれば「毎日が平安で、無事である」の意味ですが、明日と言う日は

二度とない。この一瞬を大事にせよ」ということを教え示した言葉が「日々是好日」な

のです。

朝起きて寝るまで、今日という日はかけがえのない一日です。この一日を全身全霊で生

きることができれば、それこそが「日々是好日」となるのです。

平々凡々、何事もさわりのない穏やかな状態だけが「日々是好日」ではありません。

好日は願って得られるものではなく、待ってかなえられるものでもない。私たち自身の

生き方によって、日々の好日が得られるのです。と教えています。

なかなか今日一日を全身全霊で生きることは、我々凡人にとっては難しいことですが、

そんな気持で生きることが大切なのではないでしょうか。

宮沢賢治の母親のことば

「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるためにうまれてきたのス」

(宮沢賢治の母、イチ)

幼い宮沢賢治と添い寝するとき、いつも語りかけていたという、このことばほど、

彼を象徴するものはない。人のために自分は何ができるのか。そう問い続けた

賢治は昭和8(1933)年9月21日37歳の生涯を終えた。

「私には私の望みや願ひがどんなものかわからない」と言って突如東京へ出奔

する。これはそのころ親類にあてた手紙の中にある。

さがし続けたものを、賢治は見つけることができたのだろうか。わからない。

ただ、彼の最後のことばは、「ああ、いいきもちだ」−だった、という。

と新聞のコラム「次代への名言」に記載されていました。考えると、かの有名な

「雨ニモマケズ」はこの母親の言葉が原点ではないだろうかと私は思います。

母親の影響は凄いものですね、すばらしい母親像ではないでしょうか。

 

利は不利に通ずる

尊徳のちょいといい話 

利は不利に通ずる  尊徳の名言より

賭けをして負けるのは、勝とうとすることの変化である。

商人が不利を招くのは、巨利をむさぶることの変化である。

脱税や滞納は、しぼりとることの変化である。

*賭けで負けることは勝とうとする心の裏側であり、勝つ目的のために理性を失うから

 です。賭け捨ての覚悟で余財を生み出す正業に励むことです。

商人は巨利をむさぼらず、買主の利益を計れば、何の不利もありはしない。

脱税や滞納は、国の政策の不備不足が人民の反発、不満を生むのです。良き政治を

 したならば、何の脱税、滞納もありはしない。と言っています。

現在の政治家にも聞かせてやりたいような名言とは思いませんか。いつの世も真理は

一つなのです。時代が変わろうとも真理は永遠なり。

 

強運も努力しだい  尊徳

 尊徳のちょいといい話

強運は毎日の勤労努力なくして開かれない   尊徳

 

毎日毎日の努力が無ければ運はこちらへ向いては来ない。毎日の勤労努力で、米麦も茄子、

大根も実り、米を飯に変えて犬猫も人も喜ぶ。農民にこの道理を教え実行した尊徳です。

政治家・教育者・役人すべてに言えることですが、上に立つ者に使命感がなく、職責を

果たそうとしなければ、世の中狂うのは当然です。国家経済の破綻も学校崩壊もその結果

なのです。

「我」を捨てて、広く皆のために生きることは、いま、すべての人に求められているので

す。「我」にとらわれていると、さまざまな問題が起こり、手違いが生じ、正しいことも

また水泡に帰すと尊徳は教えています。

善行善果・悪業悪果。

「いい種も悪い種もすべて自分が蒔いたもの」 尊徳

 

米蒔けば  米の草生え  米の花咲きつつ  米実る世の中(尊徳道歌選二)

 

と詠んでいます。仏の道理の教え「因・縁・果」を説いた歌です。

 

因というのは、たとえば、蒔いた種のことだ。これを耕作培養するのが縁だ。

 

種を蒔いた因と、培養した縁とによって秋の実りを得る。これを果というのだ。

 

と言っています。(夜八八)

 

すべての果(結果)は自分が蒔いた種により起こるものであると言っています。

 

「悪業悪果」「善行善果」すべてに通じることではないでしょうか。

「我」の災い

我」「欲」がもたらすもの

*「吉凶好悪(きっきょう こうお)」は全て「我」から生ずる。

人は常に自分本位に考えます。自己主張をし、自分を守る意欲が無ければ、自己を確立

することは出来ません。しかし、いつまでも自我を通せば周囲や職場に抵抗や摩擦を生じ

て、必ず孤立してしまうものです。未熟な大人と言われるのです。ふらふら  もうやだ〜(悲しい顔)

コミュニケーションの上手な人は、「我」をいかに低く押さえるかに努力しています。

「我」を限りなく「無」に近くすることが、結果として自分も周囲も救うことになる。

心を「我」から切り離して、恩を受けた「他」や周囲全体に心を向けると、不思議に道は

開け、強運に導かれる。  がく〜(落胆した顔)  わーい(嬉しい顔)

多くの人間関係、職場、会社のトラブル、原因のほとんどが「我」と「我欲」です。

あまり「我」を張らず、「欲」も程ほどにしましょう。

「躾」について

きちんと子供を躾(しつけ)けてますか。

「躾」(しつけ)について

昨今、「躾」について雑誌や新聞紙面などでよく見かけられますが、今なぜ躾なのでし

ょう。これは現在の世相によるものと思われます。

事件や犯罪が低年齢化してさまざまな問題が報道されています。今日のサンケイ新聞

にも各人の意見として「躾」について掲載されていました。

「躾」とは、身に美しいと書きます。本来は身も心も正しく美しくあれ。ということ

でしょう。この「躾」は誰がすることでしょうか? 当然親が子供にすることです。

昔からの言葉に「三つ子の魂百までも」とありますがまさにその通りです。

まず、親が子供に対する「躾」の一番は、人々に対する「挨拶」、全てに対する感謝の

言葉「有難う」ではないでしょうか。

「挨拶」は人と人とのコミュニケーションの始まりです。親を始め近所の人、先生、

友人等々挨拶無しでは先に進めません。

「ありがとう」は感謝の心を表しています。世の中一人では生きてゆくことは出来ま

せん。何事にも感謝の気持ちを持つことが大切なのです。

現実はどうでしょうか?挨拶もできない、「ありがとう」も言えない子供が殆どです。

子供を心身ともに健やかに美しく育てようとしたら、親は何よりも「躾」をしっかり

すべきではないでしょうか。それが世の中から子供の事件や犯罪を未然に防ぐことに

つながり、明るくなるのです。

躾は各家庭でするもので学校の先生が教えるものではありません。学校へ行く以前の

問題です。昔から子供を見れば親が分かると言われています。あなたは自信がありますか?

親が率先して「躾」の手本となりえることが大切です。

教育の課題

「徳育の大切さ」 「家庭のしつけを見直そう」のタイトルを「主張」の欄に見つけ

ました。(原文掲載します)

文部科学省の有識者会議「子供の徳育に関する懇談会」(鳥居泰彦座長)が報告書の

原案をまとめた。乳幼児期から徳育の重要性を指摘した内容で、近く提言が出される。

家庭の役割を再認識してほしい。

いじめ問題や少年非行の低年齢化などで規範意識や公共心を養う徳育の充実が求めら

れ、文科省は昨年8月に懇談会を発足させて議論を進めてきた。

報告書原案の中では、まず「社会全般で『徳』が見失われてきている」と危機感を訴

えた。誠実さや勤勉さ、思いやりなど世代を超えて伝えられてきたものが、ここ数十

年の間に急速に失われてきたとしている。これは多くの人が感じていることだ。

インターネットの普及など子供たちをめぐる環境も変わっている。社会の教育力低下

が懸念されているいま、学校教育だけではなく、家庭、地域が連携した対策が必要な

のは当然だ。懇談会では子供の年齢、発達段階に応じ、徳育で重視すべき課題を取り

上げてきた。家庭教育にも踏み込み、乳幼児期は親や他人との愛情、信頼関係を形成

する重要な時期だと認識を示した。

また幼児期は周囲の人や自然とのかかわり、体験を繰り返し事で道徳性や社会性が芽

生えるとし、遊びをはじめ子供同士の体験活動を充実させるよう求めた。

家庭、地域、学校の役割にも言及し、家庭は「子育ての基盤であり人生の基盤」と強

調した。「家庭でルールを作り、愛情をもって接し基本的なしつけを行う」など「10

の提言」を盛り込む。

徳育や家庭への提言に対し、これまで押しつけなどの反発もあった。政府の教育再生

会議が検討した「親学」の提言や徳育の教科化が見送られた例もある。

だが原案が「徳育では家庭の役割が何より大きい」と指摘しているように、報告書に

含まれる基本的なしつけは、言われる前に親が率先してなすべきことである。

聖地指導や家庭教育の専門家からは、家庭のしつけや学校の指導に厳しさがなくなっ

てきた現状を懸念する声を度々聞く。家族間の事件や児童虐待も絶えない。

次の大人となる子供たちの徳育充実は緊急課題だ。教育力の低下には一刻も早く歯止

めをかけねばならない。最終報告書には親や教師らの耳に痛い提言も躊躇せず、盛り

込んでもらいたい。

以上のように掲載されていました。少し遅きに感じますがやっと腰を上げてきたこと

に期待しようと思います。教育は国家を左右する最も重要な問題です。なぜならば、

今教育が始まっても20年以上経過しないと教育の結果は現れてこないのです。

事件の低年齢化や社会性の欠如、道徳の欠如は数十年間続いてきた教育の結果です。

各個人が愛情と感謝の心で接すれば世の中は美味くゆくのです。現代のように自分さ

え良ければ他人はどうでも良い。こんな時代のしたのは政府であり文部科学省の人達

ではないでしょうか。一刻も早く提言書の実行を期待するものです。

人生哲学を持つ

「人生哲学」を持つ

古今東西を通じて成功した人たちは、一貫した人生哲学を持っていました。それは因果論

を信念として持っていたのです。

種を蒔けば転地の恵みを受けて芽が出、花が咲き、実がなる。この自然の原因と結果の

因果関係が自然のすべてのものに当てはまることを、成功者たちは体験とさまざまな教え

の中から知っていたのです。

「成功した人はすべて、自分は因果論者であることを認めている」ラルフ・エマーソン

「報徳」は尊徳の思いと行動を言葉に表したもので、報徳の思想はすべての人、すべての

物を生かす意味で、人生の成功哲学と言える。

人は百年も現役で生きることは出来ません。命の限界を知って努力することが、強運を

開く人間の成功法則となるのです。

モチベーションを高める

自分をさらに進展させるにはどうすればよいでしょうか?

全てに言える事は、常に自分の仕事や行動に疑問を持つことではないでしょうか。

疑問を持つことにより創意工夫が生まれてより良い方法が見つけられるからです。

人と同じ事やマニアル通りの事だけに捕らわれていると進展はありません。

常によりよい方法を考えながら行動することが自分のモチベーションを高める方法

ではないでしょうか。

自分に満足することなく前向きな創意工夫が大切です。

二宮尊徳(金次郎)の名言

*ちょいといい話

「報恩、報徳の精神が幸福の原点」 二宮尊徳

恩を受けても報(むくい)いないことが多いだろう。徳を受けても報じないことが少なくないだ

ろう。

徳に報いることを知らない者は、将来の繁栄のみを願って、その根本を培(つちかう)わな

いから、自然に幸福を失うことになる。

「人間は考える葦である」  パスカル

人間は学び、考え、悟ることによって、より明確に生きる意味を知り、生かされている

喜びと感謝の心が繁栄の道につながる。

子供への愛、父母への恩を忘れたとき、幸せから遠ざかることを知ってください。

いつまでもあると思うな・・・・

*戒(いまし)めの言葉

「いつまでもあると思うな親と金、無いと思うな運と災難」

人は生きている間、自分の死をあまり考えないものですが、どなたも聞いたことがある

言葉ではないでしょうか。自分を戒める言葉として心に納めてください。

二宮尊徳の名言

二宮尊徳の名言

*心が正しく平らでなければ得た富も逃げていく

事を興す創業は難しく守ることは易しいが、充分な身代を平らに維持することも、難しい

ことである。

創業も大変ですが、拡大した事業を守り維持するのは大変なことです。

創業時は経営者も従業員も一致団結して目標に向かって邁進しますが、目標を満たすと、

それを維持していくのが難しいのです。自制心が崩れ慢心し、遊惰や怠慢に流れるとガタ

ガタと崩れ、止めるのは難しく破滅はあっという間です。

永年繁栄した企業が驚くような不祥事で社会的信用を失うというような事になるのを見聞

きすると、「満ちた身代を平穏に維持することも、やはり難しい仕事だ」ということです。

事業規模の大小にかかわらず何時も平らに維持してゆくことは難しいです。

つくづく感じています。

二宮尊徳の名言-2

二宮尊徳の名言

「貧富の違いは分度を守るか失うかによる」

分度とは自分のおかれている状況、器のことです。個人的のも企業的にも成功するには、

基本となる哲学、思想が堅固でなければならないと言っています。分度、いわゆる収支の

バランス、計画経済のことで、予算以上の使い方をすることを財を散らすと指摘している。

節度ある経済活動と冷静な判断、決断力、誠実な実行により成功するといいます。

苦しいときに他から借財して予算に入れるようだと貧に陥る。

苦しみが将来の喜びに結びついたとき、信頼と発展が報酬となって返ってくる。

甘く安易な道を選ばず、自他共に厳しい決断が、愛情と信頼の基盤になることを心に留め

ておくべきである。と諭しています。

普段の生活の中でも借金をしてその場をしのぐことはありますが、結局借金の返済に苦慮

してなかなか良い方向へは進めないのが現状です。計画をしっかり持って、苦しくても耐

えて他から借り入れをせず乗り切ることを心がけなくてはいけないようです。

二宮尊徳の名言

二宮尊徳の名言 「蒔かぬ種は生えぬ」

「蒔かぬ種は生えぬ」の道理は、昔からよく言われたことで、富と幸福が欲しいなら、

まず土地を耕し、種を蒔き、草取りをする勤労の積み重ねが必要です。と言っています。

賢者は、この道理をよく知っていて、勤労努力して良い因果関係をつくるのです。働いた

原因で、その後の実りと豊かな暮らしが結果として出るのです。

これは現代の事柄にも当てはまることで、努力なしでは良い結果は生まれないのです。

愚かな人は働かず、努めず、自分の不利、不運を嘆き、富める人をうらやむばかりで、

不幸の原因が自分にありことを知らないのです。

尊徳は人の幸、不幸、運、不運を、一粒の種を蒔き、土を耕す努力から始まると教えまし

た。「積小為大」は尊徳哲学の原点といえます。要は工夫努力が大切ですということですね。

「自助努力する者」を神は助けるのです。努力をしない者はただ見守るだけで、神は助け

ないことを知るべきです。

上杉鷹山の残した言葉

「為せば成る、為さねば成らぬ何ごとも 成らぬは人の為さぬなりけり」。

尊徳は自然と貧困の中で人間理解を深めていきました。人の幸福は、まず勤労に励み、貧

困から脱却することからはじまる。積み上げた富貴を守るためには、人に譲り、社会に譲

るために計画し実践しなければならないと人々に教えた。「推譲」により人を幸福にするこ

とで自分も幸福になるという。釈迦の教えでは「布施行」に当てはまります。

今、金があっても働かずに怠けていたら、貧に陥る。貧しくても働き、倹約すれば、必ず

後に富に至る。と農民を励ましたといいます。

お金は「お足」といいますが、あっという間に底を尽きます。金があっても働かないとす

ぐに無くなることは皆さんご存知のとおりですね。

成功への道

ちょいといい話  成功への道。

現代に通じる二宮尊徳の教え「積小為大」

小を積んで大と為すのが成功の原点(積小為大のすすめ)

千里の道も一歩から、一株ずつの田植があって豊穣の収穫がある。

すべては一から始まり、その積み重ねで大きな事業が達成できる。

コツコツと地道に小事を続けることが成功の鍵であり道であると思います。

*小事を嫌って大事を望む者に成功はない。

世間の人は、とかく小事を嫌って大事を望むけれども、本来、大は小を積んだものです。

だから、小を積んで大をなす他に方法はない。

現代の若者の風潮として、真面目にコツコツ努力することを卑下するようなところがあり

ますが、一歩一歩の努力は、今でも成功の原理として存在する。

*小を積む努力なしに夢の実現はない。

大事を成し遂げようと思う者は、まず小さな事を怠らず努めるがよい。

それは、小事を積んで大となるからである。

普通、世間の人は何か事をしようとして、しなければならない小事をせず、いきなり難い

ことに挑戦して頭を悩ましているが、出来やすい事をしない。それで大きな事も出来ない。

大は小を積んで、大となることを知らないからである。

*早起きが富と成功への第一歩。

「早起きは三文の得」とは昔からの言葉ですが、人生を無為に過す事なく、勤勉さが富に

至る道であると、古人は知っていたのです。とくに早朝の仕事は、自然の理にかない、

能率はバツグンです。

現代の責任ある立場の人が、ときに過ちを犯すのは才知に頼り、この基本的な因果の法則、

無駄を省き小を積み重ねる努力をするという原則を忘れるからです。個人が失敗しても影

響は少ないでしょうが、国を動かす政治家や経営者の誤算は多くの国民や社員、家族の

不幸を招き、企業が大きければ社会問題にまで発展する。それが混迷の元になるのです。

現代の世相がそうではないでしょうか?と思います。

*金銭が多すぎるのは不便の至り。

世の人はみんな金銭の少ないのを嫌って、ひたすら多いことを願うけれども、もし金銭が

各人の願いどおりに多かったとしたら、砂や石と何の相違もない。そんなに金銭が多かっ

たら、わらじ一足の代金も、一夜の宿泊代も札束一背負いいうことになる。

何不自由なく育った子供達は、お金は知恵と勤労で稼がねばならないものとは思ってはい

ません。親を脅せば、自分は働かなくても金が出てくるとさえ思っています。

自立心と忍耐力が育っていないのです。この間違いが殺人、強盗、麻薬、売春などの犯罪

の芽となり、不幸の種が蒔かれるのです。善悪の判断を教えず、過保護と金品の与えすぎ

が、子供の欲望をふくらませ犯罪を生むのです。同感・同感

*働いて後に楽しみを得るのが人生の基本。

最近の風潮に、真面目にコツコツ働く者をバカにする様子が見えるのは良くないことです。

アリとキリギリスはよく話題にされます。好きなことをして富を得られるのは結構ですが、

遊んで富が得られるようほど人生は甘くありません。

アーティストや作家など一見華やかで好きな仕事をしているように見えても、個性的な仕

事であればあるほど、人に知られぬ努力と苦労の積み重ねがあることを知るべきでしょう。

「働いた後富を得る」という人間の基本的な考え方は、人生を成功させる意味で、昔も今

も変わりません。人生も仕事も、決して甘いものではないこと、しかし、努力は必ず実る

ことも、若い人に知って貰いたいのです。

 

現代に蘇る二宮尊徳の思想・哲学・教え

二宮尊徳の思想と哲学・言葉。

尊徳は、「一家を廃して万家を興す」を自ら実践し、家屋敷、田畑をすべて売って桜町陣屋

(栃木県芳賀町)に家族と共に移り住み、至誠を貫き、忍耐のうえに「勤労・分度・推譲」

を生きる道として「一円融合」「万象特性」「報徳」の思想を富と幸福の哲学として人々に

教え伝えたと言います。

尊徳の言葉には日本人の道徳力を高める知恵が溢れている。といいます。

尊徳を知るキーワード。

「報徳」:尊徳の思想全般を報徳という。すべてのものの徳性(価値や特性)を認め生かす

    (報いる)こと。

「心田開発」:何事を成し遂げるにも、まず本人のやる気を起こさせることが第一であり、

    それによって一人ひとりが自立できる基盤を育成することができる。

「至誠」:至誠とは真心であり、これこそが尊徳の生き方や思想のすべてを貫いている精神。

「推譲」:分度を守ることにより余財を生み出し、それを家族や子孫のために蓄えたり

    (自譲)、広く社会のためや未来のために譲る(他譲)。そうすることにより幸福

    な社会が実現できる。

「勤労」:人は自分に備わっている徳を最大限に発揮して働くことにより、生きる糧を得て

    生きていくことができる。又、そうして働くことにより生きる知恵を磨き、自己

    を向上させることができる。

「積小為大」:小さな努力の積み重ねが、やがて大きな収穫や発展に結びつく。小事を疎か

    にして、大事を為す事はできない。

「一円融合」:すべてのものは相互に働き合い、一体となってよい結果を生み出す。

「仕法」:尊徳が考え出した農村復興や財政立て直しのためのやり方。

現代社会にも通用する基本的な生き方を説いているのですね。

哲学者・経済学者の尊徳

二宮尊徳は優れた哲学者であり経済学者であったのです。

栃木県現日光市・芳賀町(廃村再建)・福島県相馬市などの財政再建を果たした事は

初めて知りましたが凄いことです。

現在の日本にも、こんな人が現れたら救世主となること間違いないでしょうし、現れて

欲しいものです。

幼くして両親が田畑を洪水で無くし、その後相次いで両親を亡くし一家離散の艱難辛苦を

小さいながらも努力して乗越えて田畑を増やし成功して行く過程は目を見張るものがあります。 

「今なぜ二宮尊徳か」と言うことが分ります。

いまなぜ二宮尊徳

ちょいといい話   心に響く二宮尊徳の名言 

今、石川佐智子著の世界に誇る日本の道徳力 心に響く 二宮尊徳90の名言を読んでい

ます。日本人の心に自信と誇りの種をまいた二宮尊徳の言葉が現代に蘇る、経済とモラル

を調和させる実践哲学。これこそが道義大国日本への知恵の宝庫。とあります。

この著を紐解き徐々にご紹介いたします。

今なぜ二宮尊徳か  

道義大国への道は何所にあるのか?

長年、学校教育に関わってきた作者は、子供達の心が荒れ、暴力や破壊、いじめ、不登校

が増加し、学力低下も懸念される現状は、何より教育から日本精神が失われてきたことの

結果だと思われます。秩序と礼節を教えるはずの教師が、父母や国民が知らぬ間に、愛と

調和を尊重する人間性を否定し、「奪い合い」や「いがみあい」などの特殊な生活指導を

行い、我欲の争いの心を植えつけていたのです。

この実体に気付く人は少ないでしょうが、そうした教育が日本人から勤勉や誠実さを奪い

、不信と我欲に固めていったことを見逃すことは出来ません。

経済繁栄を享受しながらも社会が苦悩している最大の原因は、日本人の道徳力が低下して

いることにあるのだと思います。モラルを失いエコノミックアニマルと欧米から蔑視され

た日本が、道義大国として世界から信頼される道はどこにあるのでしょうか。

現代人の苦悩は、無責任な政治と教育から生まれたもので、真に愛情と責任のある指導者

が必要なのです。いま、二宮尊徳が注目されている理由がそこにあるのです。

と、序盤から私と同感の強いメッセージを披露された著者に感銘いたしました。

教育は1日にしてならず、長期にわたり計画的に行はなければなりません、いま行なわれ

ている政治の改革や教育で日本の将来は果たしてどうなるのでしょう。改革の失敗がいま

国民を困らせ日本をダメにしている現状をあなたはどう思いますか。

新聞のコラムより

ちょいといい話

*心を育め

新聞の「話の肖像画」にありました聖路加国際病院理事長 日野原重明さんの言葉をその

まま記します。

----世界は「100年に一度」という不況に苦しんでいます

日野原:しばらくは耐えることが必要ですね。これまでの過度なぜいたくを改め、もっと

質素に生きることです。そして「自分のために」ではなく、他人のために動く、困ってい

る人にもっと分ける。お互いに耐えて待つ以外にありません。現代人は、とかく「自己中

心」に物事をとらえすぎです。

例えば、「65歳になったら介護保険で世話になる権利がある」という人がいますが、もっ

と自立して、いよいよになったら甘んじて受けるぐらいの心構えが必要ではないでしょう

か。権利、権利とばかり言うのではなく、もっと謙虚な気持になることです。

-----「お金がすべて」という風潮も気になります。

日野原:愛あれば貧しくてもいいんです。戦争中、食べ物がなかった時代はおにぎり一つ

砂糖一つでどれだけ感激したことか。豊かになれば感性が鈍ります。昔の日本人は、貧し

いけれど、みんな感謝の気持を持っていました。

-----今の子供たちの周りにはモノがあふれかえっています。

日野原:分け与えると言う気持ちがありません。「余ったら捨ててしまえ」です。

世界では10億の子供達が飢えで苦しんでいるのにですよ。日本の子供は欲しいものは買

ってもらう、お小遣いももらう、甘やかされる・・・。

そこでアイデアがあるのですが、日本の若者は就職する前に1年間、アフリカや難民キャ

ンプへ行き、モノのない所での生活をしてみたらどうでしょう。そうすれば世界のことが

少しは分ります。日本人は良い学校に入り、一流会社に就職し、「安定」することばかり

考えていますが、イージーなことではなく、もっといろんな体験をしないとだめですね。

と言っています。

もう一度私たちも考え直さなければいけないのでしょうね。「安定」を求めるにしても現在

の世の中ではとても無理のようです。政治の将来を見据えない欧米のまねばかりの「改革」

を推し進めた結果が日本を国民をダメにしているのです。政治と教育の大切さをもう一度

一人一人が真剣に考える時代が来ているように思います。

ちょいといい話「地位・名誉・金銭等役に立たない世界」

禅の言葉は今回で一応終了します。是非この記事をご記憶下さい。

人間は死後、霊界では生前の地位・名誉・金銭・知識などは何の役にも立たない

そうです。ただ評価されるのは世の為人のためにどれだけ貢献したかが問題だそ

うです。要は人生、道義的に自利利他の精神で生きることに尽きるのです。

それでは記事を記載します。

 

ちょいといい話  禅の言葉

*「大死一番 絶後再蘇」 (たいしいちばん ぜつご ふたたびよみがえる)

「大死」人間にとって究極、極限状態それが大いなる死「大死」です。

死、人生の終りを感じた時、これまでの虚飾(地位・名誉・金銭・知識など)は、一

切役に立ちません。理屈も入り込むすきがありません。本来の人間性に戻るしかない

のです。

仏教は死んだ人のための宗教ではありません。それが証拠に、お経の原点をたどれば

お経とは元来、今現実に生きている人間が、悩みを相談してそれに答えるお釈迦様の

会話集だからです。  南無南無

次回からは二宮尊徳の言葉を記載します。今なぜ二宮尊徳か・・乞うご期待

次代への名言  高峰秀子

新聞の「次代への名言」のコラムに、かの有名な女優高峰秀子さんの名言が

ありましたので紹介します。

「人間は一人では生きることも死ぬこともできない哀れな動物、と私は思う」

と言うことばです。

人は誰もが自然界の全てのものに支えられ生かされているのです。一人では

生きることは出来ないのです。何事にも感謝をしながら生きることが大切です。

お彼岸

お彼岸の「彼岸」は、「到彼岸」という言葉に由来します。

「到彼岸」とは、サンスクリット語の「パーラミター」(漢字で「波羅蜜))を漢訳した

もので、「到彼岸」の彼岸は、迷いのない悟りの境地を意味します。彼岸に対して、私た

ちが生きている煩悩に満ちた俗世間が此岸。こちら側(此岸)の私たちが、あちら側

(彼岸)に到るための仏道修行を「到彼岸」といいます。

やがて、悟りの世界である彼岸を、死後の安らかな世界である浄土と捉えるようになり、

現在のように亡くなったご先祖様に想いを馳せる「お彼岸」が定着していったようです。

彼岸会は春分の日、秋分の日を中日(ちゅうにち)として、前後三日ずつ一週間にわたり

行われる法会ですが、この時期に彼岸会を行なう理由は、太陽の動きと関係があります。

浄土教では、極楽浄土は西の方角にあると考えます。浄土経典の『観無量寿経』には、極

楽浄土を想像するための十六の方法が説かれていますが、その一つとして、西に沈む太陽

を見て極楽浄土を想う「日想観」という方法があるほど。ここから太陽が真西に沈む春分

・秋分の日に、西方浄土を想像し、ご先祖様を供養する習慣が生まれました。

と言うことだそうです。

ちょいといい話 「すべては心が造るもの」

ちょいといい話 -7- 禅の言葉

*「一切唯心造」 (いっさいゆいしんぞう) すべては心が造るもの。

「一切は唯(ただ)心の造るものなり」

地獄・極楽もしょせん心の中です。善悪、美醜、有無の心が造り出したものです。

そういう相対する所から争いや、悩み、迷い、苦しみが生まれるのです。

一切は心が造るとわかると、自然の中に対立は消え、心はそのままに見るという状態

が出来ます。そこを仏様の心というのです。

心がけ次第で幸も不幸にもなるのですね。どうせ短い一生なら幸せに生きたいものです。

顔は心の鏡です。柔和でやさしい笑顔で日々を送りましょう。

 

ちょいといい話 -5-

ちょいといい話 -5- 禅の言葉

 

「放下著」 (ほうげじゃく) 捨ててこそ自由自在が得られる。


「放下」とは、放り出す、捨てるの意味。「著」は命令を強める置字です。「捨ててし まえ」

ということです。

執着から生まれてくる煩悩は、つきることはありません。後から後から欲は泉の如く

わきだします。そのものが得られれば、一応満足してもそれを保持したことによって

再び悩まされたり、又新たな物を求めようとする。だったら、いっそ全てを捨ててし

まう。無に徹する。すると、そこにとらわれのない境地を得ることが出来る、そして

無ということも捨て去るところまで行きなさいと言っているのです。

難しく奥深い話ですね。

ちょいといい話 「報恩」「供養」

ちょいといい話 -4-  禅の言葉

*「報恩」

「恩」とは原因を知ることです。今ある自分を知る心。因の心と書きます。

*「供養」

「供養」とは、人と共に養うという言葉です。法要に人が集まるのはここなのです。

「供」という字は人と共にと書きます。文字を善く見ると面白いですね。

ちょいといい話 「一期一会」

ちょいといい話  禅の言葉より。

「一期一会」これは茶道からの言葉です。

一度の出会いに命がけで臨む。と解釈します。

井伊直弼の「茶湯一会集」にそもそも茶の交会(こうえ)は、一期一会といいて、たと

えば幾たびも同じ主客と交会するも、今日の会に再びかえらざることを思えば、実に

われ一世一度の会なり。とあります。

たとえば今後、同じ人と幾度もお会いすることがあったとしても、今日この瞬間の出

会いはもう二度とこない。それこそ命がけでこの一回の出会いに望まなければならな

い。と言うことです。人との出会いは真剣に大切にしましょう。

「会者定離」(えしゃじょうり)・・・・出会う者には必ず別れがある。だからこそ人との出

会いを大切にしましょうということのようです。

[人はなぜ苦しむのか

「苦」からの脱却

人間はこの世に生を受けたときから「苦」が始まります。

「生・老・病・死」これが「四苦」です。そして「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」

これで八苦です。総じて「四苦八苦」と言われています。

そして自分の「苦」の原因はすべて自分の「心」にあると釈迦は教えています。

自分に与えられた「苦」を取り除くには、自分の心を宇宙の真理に照らし合わせてみて

間違った考えをしていないかを確認してみる事です。もし間違っていたら懺悔して改める

ことで人生が変わります。

自分の考えや行動に執着しているとさまざまな問題や病気を引き起こすのです。

自分に覚えがない事でも、いま起こっている問題の原因を作っているのです。

それが因縁なのです。
    
「一切の業障海は皆妄想より生ず。若し懺悔せんと欲せば端座して実相を思え、衆罪は

霜露の如し。慧日能く消除す」と「懺悔経」に書かれています。「実相、つまり見えない

因縁を観じて懺悔すれば、その罪は朝日に当った霜や露のようにみるみる溶けて無くなっ

てしまうものだ」ということです。

人間の病気や、その人の抱えている問題は、すべてその人の心の現われなのです。

ご先祖様や両親、自分を支えてくれる周囲の人たちに感謝の心で接することが大切です。

人間は宇宙の真理によってこの世に生かされているのです。

自分の心を宇宙の真理、自然の法則に照らし合わせるには仏法(釈迦の教え)に触れてみ

る事です。一番身近にある仏法は「般若心経」でしょう。人間は誰にでも仏性があるのです。

262文字の中に本当の人間としての生き方(宇宙の真理)が説かれています。

良寛和尚

ネタを探して本を開いたら良寛さんの言葉に出会いました。

「世の中に何が苦しと人問えば 御法(みのり・仏法・真理の法)を知らぬ人

と答えよ」と言っています。

苦しみ悩む人は宇宙そして人間の真理を知らない人だ。と言うことですね。

皆さんも真理を知って苦しみ悩みから開放されて幸せな人生を送りましょう。

宇宙の真理・人間(自分)の真理を知りたい方はどうぞご一報下さい。

 みんなが幸せになれるブログ 相談所

いまをどう生きるのか

現代に生かす仏陀の知恵。

この問題多き世の中、ギクシャクした人間関係をどう生きてゆけばよいのか、

そう思い悩んでいる人は多いのではないでしょうか。

人間原点に返りもう一度考えることが大切ではないかと思います。

そこで人間釈尊の教えを現代人が日常生活に体得するには

「ありがとう」・「すみません」・「はい」と言う挨拶言葉どうりに実行する事です。

すべては感謝の気持を持って接して実行する事です、との教えです。

そして、よき生き方をしていくために「今日為すべきことを、明日に延ばさず

確かにしていくことが、よき1日を生きる道である」といっています。

自己研鑽と反省をしながら良い人生を送りましょう。

 

伊達政宗の五常訓

「伊達政宗の五常訓」の中に「この世に客に来たと思え」の一説があります。

気ながく心穏やかにしてよろずに倹約を用い金を備うべし。

倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり、この世に客に来たと思えば何の苦もなし、

朝夕の食事は、うまからずとも誉めて食うべし。

元来、客の身になれば好き嫌いは申されまい。

今日の行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

 

正宗は、自分を主人公と考えずに、この世に客にきた、相手のご好意に甘えて来ました。

と考えるという。お客に行って、このご飯まずくて食えぬとお膳をひっくり返す馬鹿はいない、

ありがたく頂戴しますとなる。これはお客に行ったときの常識である。

そのぐらいの気持でこの世に処していけば、不平もなく、心安泰に暮らすことが出来る。

つまり人の世が案外住みやすくなる。不満を持って愚痴を言っている人生と、感謝の喜び

を常とする人生とでは、味わいまでもが変わってくるでしょう。    ということです。

不景気な世の中、愚痴ばかり言っても始まりませんね。

 

日本人

裏千家前家元 千 玄室さんの言葉です。新聞のコラムより。

「十干十二支 自然の教え」どうぞご覧下さい。 日本人としての心得を思い返して

ください。

            新聞記事   

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運を開き不況を乗越える

西国二十九番 青葉山 松尾寺の「極楽(しあわせ)・地獄(ふしあわせ)の岐(わ)かれ道」

の教えより仕事に対する考え方についてを書きます。

考え方・取り組み方の違いで、幸・不幸が分かれるのは、人生の諸相でかいま見る

ことができす。

「幸福への道」の中に「仕事を趣味に能率をはかる人」の一言が書かれています。

仕事とは、地獄のように辛いものではなく、打ち込むことで極楽になるという考え方です。

いわば「仕事を趣味に」という仕事観は、実は中世以来の日本特有の思想である。

その後、現代に至るまで日本人の意識の根底に綿々と流れている。だから日本で

「あの人はすごい」と社会的に認められている人を見ると、大半が仕事を趣味として

能率をはかって生きている人である。そういう人にはお金を貸しても大丈夫だと周りの

人まで進んで融資をしている。明日が、自分の力ではなく周囲の力によって開けて行く

のです。と教えています。

何仕事においても、自分に与えられた仕事に熱中し試行錯誤しながら努力してその道

のプロを目指して頑張る事が大切であるという訓示ではないかと私は解釈します。

 

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人は誰でも幸せになるために生まれています

そして、幸せになるためにはどうすればよいでしょうか。

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生かされている

人間は自分の意思で生まれてきたのではない、宇宙の真理によりこの世に生を受けたの

です。

我々、地球上の生物は宇宙の真理により生かされているのです。「自分は一人で生きて

いるんだと思い違いをしてはいけない。「生かされている」訳は、貴方は空気・太陽の光・

熱エネルギーにお金を払っていますか。誰も払ってはいません。無償でいただいている

訳です。太陽のエネルギーは、およそ一日24時間で210億円、空気は一人当たり24

時間で酸素ボンベに換算すると12,600円と言われています。

この様に宇宙の恵みを無償で受け、宇宙の法則、自然の法則の中で生かされている事を

自覚し感謝してください。人生の一番大事なことです。

幸せに人生を送るには自然・宇宙の法則に従い人間本来の真理の基に生きることです。

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2010年九星(勢)表

あなたは何所に回座していますか。 

2009年の九勢(星)表を掲示します。

平成22年九星表    九勢(星)定位置図

生年星・生年月星早見表

 

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井戸端会議

近頃思うこと。 
最近は井戸がありませんので、井戸端会議とは居えないのでしょうね。
その時代は、近所の女将さん達が井戸の周りで洗濯したり、洗物をし
ながら、亭主や子供さては近所の噂話をし情報交換の場であったよう
です。現代は、子供を学校や塾に送り迎えの時に、道端や駐車場での
井戸端会議?が多く見受けられます。私も孫の送り迎えをする時があり
待ち時間の間に耳に入ってき来る事がありますが、話の内容は子供の
事、先生の事そして父兄仲間の噂話など暇(いとま)がありません。
奥様方の女同士の愚痴のはけ口なのでしょうね。
男の人にも居ますよ、仲間同士でひそひそ話、他人の噂話、酒の席での
噂話、聞いる方も嫌になります。話の内容にもよりますが、不確実な噂話
は相手を傷つけるだけで頂けません。男の井戸端会議は、いい話ならとも
かく相手を非難したり、傷つけるような話はやっぱり止しましょう。
・・・じゃないか。・・・のようだ。の話(妄語)は止めた方が良いようです。

執着心

貴方の周りにも役職に執着するする人がいませんか。
私の所へは色々な人が相談や遊びに見えて、中には不平不満を語っていく人が居ます。

話をするとスッキリしてお帰りになります。
色々な所で役職を長期間続けている人が居ますが、周囲の人から本当に懇願されている

人と、皆に飽きられてるのに固辞して居座る人、色々な人が居るようです。

役職や名誉にあまり執着すると何かと周囲から、反発を受け上手く行きません。

又、日本は役職を永く継続しないと、将来国や役所から表彰されないようです。名誉等に
執着心が強いとどうしても役職に永く留まるようです。
私の隣の町内でも、町内会長を十年以上続けている人が居ますが、町内の人は皆さん

早く交代してくれる事を願っているようですが、誰も口に出しては言わないので居座り続け

ているようです。周囲からの不平不満が出ないうちに、自分で察して次の人にバトンタッチ

された方が周囲も丸く収まるのでしょうがね。話を聞くのも大変ですよ。
周囲から懇願されていても程度問題です。

「執着心」は全てに於いて何かと問題を起す原因となります。

物事には、あまり執着しないで生きる方が得策です。

人間と宇宙の真理

摩訶不思議

  (人間)       と    (宇宙の真理)のつながり

人間の体温 36.5度・・・・  一年・・・ 365日
    血圧       ・・・・  365を春夏秋冬の四季で割る
                     365÷4=90 (血圧の下)
    脈拍 72位  ・・・・  土用の問題からつながっている。
    呼吸           土用は年4回、それぞれ18日しか
                  ありません。
                  人間の呼吸は一分間に18回です。
                  90より18を引くと72です。これが
                  脈拍につながります。

以上、人間は宇宙の真理の中に生かされています。生かされていると
いう事は、生かしている人がいる訳です。その生かしている人のヒント
を聞いていたほうが得策と思います。幸せの為に。   耳  ひらめき

    
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